あれは先週のホワイトデーだった。



「ビラ配り終わったら、そこ食いにいこーぜ」



木曜日恒例のビラ配りは、ちょうどホワイトデーだったからか、配ってハイ終わり、ではなかった。



そこというのは中華料理屋さん。
お店の扉をあけると、熱気が顔にかかった。
深い火鍋の中でこの店全体がグツグツと煮込まれている、そのくらい熱気や活気に満ちていた。
これでは外まで匂いが漂うわけだ。



メニュー表を見て、赤星くんはすぐに「俺チャーハンのセットにする」と言った。
私は「決めるの早いね」と言いながら、急いでラーメンのセットに決めた。
普段なら本を読むようにメニュー表をじっくり見るけれど、彼はチャーハン以外の料理には興味がないらしい。



「飲み物は?泥水でいーか?」
「ジュースがいいですぅ」



「すみませーん」と赤星くんが大きな声で店員さんを呼んだ。



あんなふうにオーダーできるのがかっこいいと思った。
卓上に備え付けてある呼び出しベルがないお店では、恥ずかしがり屋の私は注文するだけでも困ってしまうのだ。


授業中の挙手でもそう。
答えがわかっていても挙手ができない。
普段から教室で大人しくしているせいか、発言して席に座るときになんとなくおさまりが悪いんだ。
でも赤星くんの場合は、答えはわかっているけどだるいから挙手はしない、というおさぼりタイプだ。
いつもSHRで先生が話しているときも無反応だけど、不意に名指しされても大きな声でサラリと答えていた。



「冬も終わっちゃったね」



ブレザーの上着を脱いで腕まくりをした。
店内の暖房は冬の温度設定のままなのか、食べる前から暑かった。



「やなわけ?」
「寒いときにふうふう言いながらはふはふ食べる、あの冬ならではの湯気が好きなの」
「名残惜しいのは冬じゃなくて鍋じゃねーか」
「ああ、鍋の季節が終わっちゃう。寒いときに温かいもの食べるとほっとするよね?あの感覚好きだな」
「暑いときに冷たいもの食べてクーってなる方がよくね?夏に部活で飲むスポドリが一番うまい。キンキンに冷えたやつな。夏の体育館って蒸し風呂だからあれは生き返る」



赤星くんなら自分という体をコップにして2リットルのペットボトルでも一気にゴクゴクいけそうだなぁ。



「生き返るって、もう味じゃないよね。味覚じゃなく快楽かな?」
「体が欲してんだろーな。生存活動として飲むからクソうめぇ」



くそうめぇ、か。
共学とはいえほとんど女子としか話してこなかった自分にとって、赤星くんの荒い言葉使いは新鮮だった。



もわぁ、と湯気をたてて運ばれてきたラーメンセットには、餃子と杏仁豆腐が付いていた。



チャーハンセットにはラーメンと杏仁豆腐が付いていて、赤星くんがラーメンのお皿を持つとお味噌汁のお椀のように小さく見えた。
気持ちがいいほど麺をズルズルッと一気にすすっていき、喉仏が上下するのをラーメンの湯気の奥から見た。
大きな一口だったな。


私は杏仁豆腐を先に食べようと思い手前に持ってくると、その隣に赤星くんが自分の杏仁豆腐を置いた。



「やる」
「杏仁豆腐も苦手なの?」
「食べられるけど、別に食べなくてもいい」
「一口だけ食べてみてよ」
「やだね。匂いがちっせぇころから無理」
「味覚って食経験次第で変わってくるんだよ。もう一度食べてみて?」



白くてプルルンと揺れるそれを差し出すと、赤星くんは自分の手に持ち替えてからゆっくりと口に運んだ。
コオロギの天ぷらでも食べたかのような渋い顔をして、すぐにスプーンを置いた。



今度は私もトッピングされている赤いクコの実をのせて食べてみた。



「んー!美味しい!」



クセのある味というよりも、もう美味しいのがクセなんですよ、という完成された味に、秒で食べおえてしまった。
二人分も食べたのに、全然食べた気がしない。
なんなら食べてない。



……うう、あれは今思い出しても美味しかった。
スーパーで買えるカップに入っている杏仁豆腐よりもずっとずっと濃い味がした。



店内はお客さんで8割ほどうまっていて、男女のペアは私たちをのぞけば中年夫婦しか見当たらなかった。



美味しければどんなお店だっていいけれど、かわいいカフェにも行きたいな……。


どんなふうに口に出そうか迷っていると、赤星くんが机の脇に置いてある『酢』とラベリングされたガラスの容器をチャーハンにかけていて、ギョッとした。



「それ酢だよ!醤油差しはこっち!」
「チャーハンには酢とコショウだろ」
「そうなの?餃子に酢なら聞いたことあるけど」



スプーンで一口もらってみると、肉汁をやっつけるように酢がサッパリとした味をつくって、これはこれで美味しかった。
餃子にも酢をかけてみたけど、これは餃子のタレをかけた方が格段に美味しかった。
そんなふうに、お互いのものを一口ずつ交換していった。



杏仁豆腐といい餃子のタレといい、良い中華料理屋さんはメイン以外もちゃんと美味しいんだな、と思った。
杏仁豆腐は、杏仁粉を買って今度は自分で作ってみるつもりだ。
赤星くんにお裾分けできないのが残念だ。



そのとき、頭の中に青先輩が浮かんだ。
好きな食べ物が同じで、それを一緒に食べて幸せになることが青先輩とはできたな……。



なんでも仲良く共有したいカップルにとって、食の好みが合わないことは現実問題としてデートの満足度に影響する気がするんだ。
デートしたい=一緒に共有したいってことだから、そのオプションとして食事はほぼ毎回つきものだよね。



私は杏仁豆腐のお礼にチャーシューを1枚あげた。
すると、すごく喜んでくれた。
その笑顔を見ただけで、好物が違うっていうのもいいもんだなぁ、と思った。
もし青先輩が相手だったらありえないトレードだ。



食べ物に限らず、性格も違う方がいいかもしれない。
主導権を握りたい人と握られたい人、饒舌な人と寡黙な人みたいに、正反対の方が歯車のようにカチカチと上手く回るものかもね。



「ねぇねぇ。食べ物で何が一番好き?肉?エビフライ?」



追加注文したラーメンを食べている赤星くんにきいてみた。
少し考えているのか、レンゲでスープをすくっては戻し、すくっては戻し、を3回繰り返した。



「……昆虫。昆虫食ってあんだろ?おやつによくイモムシとかコオロギとか食うやつ」
「えーっ!!」



一番の好物が虫だったなんて……。
もちろん好みについては議論の余地がないのはわかっているけれど、「虫って本当に美味しいの?」と探る気持ちできいてみた。



「すげーうめぇぞ」
「食文化かわってるね。そうなんだ……。虫味……」



カメレオンのように飛び出す舌を使って、そこらへんに飛んでいるハエをシュッて捕まえて食べる赤星くんを想像した。
……想像するんじゃなかった。



「ハチミツとハチなら、どっちが好きなの?」



頼むからハチミツって言ってほしい。
両手を合わせてお願いのポーズできくと、赤星くんは意味深長な顔を浮かべて「冗談」と言った。



「じょうだん?……もーう!もういいです!もう!」
「モウモウさん」



この人は他人をおちょくってモウモウさんにするのが好きらしい。



お会計のとき、「ホワイトデーのお返し」と言っておごってくれた。
今日が何の日か覚えていてくれたのが嬉しかった。



それに、赤星くんの些細な情報が知れたことも嬉しかった。
チャーハンは酢でしめるのが好きっていうのと、杏仁豆腐は苦手、ってことが私には国家機密なみに重要で、頭にメモをしてCONFIDENTIALのスタンプを押した。



そして月夜の帰り道、ちゃんと家まで送ってくれたのだ。