「……記憶……は」

「残念ながら、記憶は戻ってないです」

陽茉莉が亮平を名前で呼んだことで、もしかしたら……と思ったのだが、やはり記憶はそのままだ。

「じゃあ、なぜ……」

「会いたいと思ったからです」

「っ!」

「恋人だったんですよね。何も記憶のない私の部屋の中に、亮平さんの痕跡がたくさん残っているんです。亮平さんでいっぱいで溢れていて、それなのに私は記憶がなくて本当に申し訳なくて……。だからもう一度あなたに会ってお話がしたくて長谷川さんにお願いしました。ご迷惑でしたか?」

真っ直ぐな目ではっきりとそう告げられて、亮平は息をのんだ。そこに迷いはない。誰かに言われたのではない、これは陽茉莉の意思なのだとひしひしと伝わってくる。

「……迷惑なわけ、ない。だけど俺は君を幸せにできる自信がないから。……だから別の道を歩んでくれればと思ったんだ」

「亮平さんはそれで幸せですか? 私がいなくなって幸せですか?」

陽茉莉はまっすぐに問いかける。
求める答えはない。何が正解かもわからない。けれど亮平の本当の気持ちが知りたかった。

亮平は前髪をくしゃりと掻きあげ小さく息を吐く。
唇が震えてしまう。思わず口もとを手で覆った。

「どうして……そんな答えづらいことを聞くかな。陽茉莉は……意地悪だよ」

絞り出した声はどう頑張っても震えてしまった。

陽茉莉がいなくて幸せだなんて、到底思えるわけない。
その証拠に、亮平の心はずっと沈んでいるのだから。

亮平の瞳がゆらりと弧を描く。
陽茉莉が滲んで見えた。

「…………」

「だって私は記憶がないけれど亮平さんに辿り着いた。もっとあなたのことを知りたいって思っているんだもの」

「ああ、……やめてくれ、陽茉莉」

一筋の涙がこぼれ落ちる。
それをきっかけに、どんどん涙が滲み静かに頬を流れていく。

「亮平さん……」

いつの間にか亮平の横に来ていた陽茉莉はそっとハンカチを差し出した。その手が懐かしくてあたたかい。

記憶がなくても陽茉莉は陽茉莉だ。
他の何者でもない。
直接会って、話して、亮平は確信せざるを得なかった。

「俺は、陽茉莉のいない世界なんて考えられない。……好きなんだ陽茉莉のことが。……好きだよ」

「……私に記憶がなくても?」

「記憶がなくたって、陽茉莉は前と何ら変わらないよ」

本当に。
まっすぐで明るくて屈託のない笑顔。
亮平の心をあたたかく照らす。

「私に教えてくれませんか? 亮平さんとデートした場所とか食べたものとか。思い出せないかもしれないけど、感じたいんです」

「陽茉莉……。ごめん。本当にごめん。……ありがとう、陽茉莉」

なくなってしまった陽茉莉の記憶。
なかったことにした亮平の気持ち。

あの日から止まっていた時計の針が、またゆっくりと動き出す。
それは二人のペースで、一歩ずつ、そして確実に前を向いて時を刻み始めた。