「はーい、今開けまーす」
インターホンのスピーカー越しでも透き通るような明るい声が聞こえてすぐに、ドアが開いた。
「いらっしゃーい」
丸くて柔らかな声音で、優子は私たちを迎え入れた。
優子は高校時代の同級生だ。三年間、部活もクラスも同じだった。高校生活で一番長く同じ時間を過ごした人だ。そして偶然にも、私たちは地元でもないこの土地で再会し、あの頃と変わらない友情が続いている。
そんな彼女の腕の中には、こちらをビー玉のような瞳で見つめる幼い子どもがいた。
いかにも女の子らしい、フリルをあしらった服を着ていて、まるでお姫様のようだった。細くてさらさらとした髪の毛は、頭頂部から少しずれた辺りでかわいくちょんまげをしている。ほんとに、天使のようだった。
そんな娘を抱く優子もまた、天使のようだ。娘と似合わせたふんわりとしたワンピースを着て、少しねじってハーフアップにした髪には、きらきらしたヘアアクセサリーが編み込まれている。
ナチュラルな生活感が漂ってきて、まるで森の中から妖精の親子が出てきたみたいだ。
家の中からは、何とも爽やかないい匂いと、マイナスイオンを含んだような優しく涼し気な風が流れてきて、本当に森に来たんじゃないかと錯覚してしまう。
「ごめん、遅くなって」
「全然いいよ。それよりすごい汗だね。シャワー浴びる?」
優子は本当に心配そうに目を丸くした。それもそうだろう。私たちは三人とも汗だくだった。今でも頭皮から汗がじわじわと噴き出している最中だ。Tシャツもぐっしょりだ。それに加え、子供たちのTシャツは、手洗いしても落ちなくなった泥がシミとなって汚らしい。
玄関の姿見に映る自分の姿がちらりと目に入った。もう必要ないのに、私はかぶった帽子をさらに深くかぶり、マスクを目元まで上げた。
「大丈夫、大丈夫。昼ご飯ごちそうになるのに、シャワーまで借りたら図々しいでしょ」
「いいじゃん、友達なんだから。それより風邪? 大丈夫? 無理しなくてもよかったのに」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」と言葉を濁しながら、私の顔をのぞき込んでくる優子から逃げた。
優子とは月に一、二回、子供を連れて会っている。今日はサンドイッチパーティーをするからと昼食に誘われた。
優子はこうして度々パーティーを開催する。パーティーと言っても、その実態はSNS用の写真撮影会だ。楽しそうにおやつやご飯を作る子供たちの写真を撮ったり、話題のおもちゃで遊ぶ姿を撮影したり。自分の子供だけでは映えないので、我が子も狩りだされるというわけだ。その報酬として昼食やおやつが提供される。
目的が達成されれば、あとは自由。
今日もはじめこそ丁寧に、楽し気に具材をパンに挟んでいた子供たちも、いつしか好き勝手食べ始める。その頃には撮影も終わっているので、その後の惨状は映らない。パンにはさまず具だけを食べようが、手づかみしようが、床にこぼそうが、ひたすらちぎって投げようが、それらが世に出ることはない。
もちろん、そのいちいちにひたすら注意と怒りをまき散らす私の姿も。
その横で優子は「いいよ、いいよ」なんてのん気な声を出しながら、撮影したばかりの写真をチェックしている。
きれいだったテーブルの上は、あっという間に悲惨な食卓となった。
毎度のことだけど、撮影後はどっと疲れる。
食事も終わり、リビングで子どもたちの動画鑑賞会が始まると、私たち親はその傍らで雑談に興じるというのがお決まりだった。テーブルの上の、颯太が食べ残した不味いサンドイッチを手に取りながら、優子と向き合った。
優子と話すことと言えば、いつも家族や子どもたちのことだ。
高校生の頃は、恋バナが中心だった。恋バナだけで一日が終わったんじゃないかというくらい、恋の話は尽きなかった。特に優子は恋多き女子だった。好きな人と目が合った、話しかけられた、グループが一緒になった。それだけで、一大ニュースのように盛り上がった。二人であられもない妄想をして、休み時間や放課後には好きな人を盗み見に行って、二人でいつも胸を焦がしていた。
それが今ではすっかり主婦目線の話題ばかりだ。
夫の愚痴。子育ての悩み。それを中心に、どこか暗い話題ばかりになる。昔のように、頬を上気させるような話題は全くない。いつも同じ話題を、飽きずに繰り返す。
私は今朝の出来事を当然優子に話した。すると優子は、いつものことだけど、手を叩いて笑った。
「何それ? ほんとウケるんだけど」
「この話のどこがウケるの?」
「だって、『私の料理よりふりかけの方がおいしいって言うの?』って。そんなセリフ、今時ドラマのセリフにもならないよ」
テーブルの向こう側で優子は爆笑している。所詮、他人事だ。
「さすがだね」
「何が『さすが』なの? こっちは深刻な問題に直面してるんだけど」
「深刻って、ふりかけが?」
ダメだ。完全に面白がってる。我が家の家庭問題を。
「早矢香んとこはいつも楽しそうでいいね」
「どこが楽しそうなの? 私の話聞いてた?」
「いつも聞いてるじゃん。私なんていない方がいい、結婚しない方がよかったんじゃないかって頭抱える下りまで」
思わず「うっ」と気まずくなる。
今日はまだそこまで言ってない。
だけど、優子がそう言ってくれなかったら、たぶん今日もまた、繰り返していただろう。
優子ははじめこそ真剣に悩み相談に乗ってくれていたけど、ここ最近はすっかり慣れてしまったのか、私の悩みをむしろ楽しんでいる。私はその姿に唇を突き立てる。
「優子の所は良いなあ。何でも信用して任せられる旦那さんで。イケメンだし、背も高いし、器用そうだし、大手企業勤めだし」
「まあそうだね」と優子は否定する様子もない。その代わり、鼻で笑ってから続けた。
「背は高いしイケメンだし、給料もいい。ついでに外面もいい。頼めば片付けもばっちりしてくれるし。でも、それだけ」
「それだけって十分じゃない? この間も、旦那さんが見ててくれたから出かけられたってSNSに……」
「見ててくれたよ。私が準備しておいたご飯をレンジで温めてテキトーに食べさせて、子どもの機嫌が悪くなったらスマホ見せて。もうほんと信じられない。動画見せてれば子供見てるって思ってるんだから。言われたことしかやらないしさ。ていうか、言われたこともまともにできてないし。結局私が帰ってから洗い物して、子供をお風呂に入れて、歯磨きして、寝かしつけて。いつもの生活。家事、育児をしてくれるのは、わたしがSNSにあげるときだけ。私のSNSを友達やママ友が見てるって知ってるからさ、ここぞというイベントの時は張り切るんだよね。だから無理やりにでもこういうイベントごと作って、育児に参加させるんだよ。今日も早矢香とSNSにあげるパーティー企画してるからって言ったら、見事なまでに部屋を片付けてくれたよ」
「ひひひっ」と優子は意地悪な笑みを浮かべる。
確かに優子の家はきれいに片付いていた。たたまれていない洗濯物なんてどこにもないし、リビングのソファの上にもローテーブルの上にも、何も物は置かれていない。
思い返せば、優子の家はいつ来てもきれいだった。いい匂いがして、空気も澄んでいて、明るくて、広くて、居心地がよかった。それは、言い方は悪いけど、優子の旦那さんの見栄の賜物だったというわけか。
「普段はそんなに協力的じゃないよ。休みの日はゴロゴロしてテレビとスマホに目移りばかりして、私と子どもなんて、全然見てないんだから」
そう言う優子は呆れたような表情を作るだけで、全然怒っているように見えなかった。終始穏やかに、淡々と語るだけだった。私だったら目くじら立てて怒り狂っているところだ。
「どう? 自分の旦那の方がよっぽど良いって思えてこない?」
「それとこれとは別の話でしょ?」
「早矢香は贅沢なんだよ。ていうか、わがまま? 甘えすぎ」
その言葉に、ちょっとカチンときた。
「優子にはわかんないよ。あの人と生活するストレスなんて」
そんな私に、優子は呆れたように息を一つついた。その表情が、何とも大人びて見えた。その仕草が、今朝がた感じた惨めな感覚を、私の胸に引き戻した。
「水野家の事情は分かんないし、口出しするつもりもないけどさ……」
興味なさげにそう切り出したかと思ったら、優子は姿勢を正して私に厳しい目を向けた。
「とりあえず、いつも言ってるけど、『あの人』呼ばわりするのはやめなよ」
「えー?」と私の口から気だるげな声が漏れる。まるで職員室で注意を受けるのが不服な不良生徒みたいに。
「一応私も水野先輩の後輩だったわけだから、尊敬する先輩が『あの人』呼ばわりされてるのはどうも忍びない」
「呼び方なんて、何でもいいじゃん」
「よくない。呼び方次第で、気持ちの距離も関係性も変わってくるでしょ?」
「そう?」と言いながら、私は絶対名前でなんか呼ぶもんかと固く決意した。
「何が不満なわけ? 水野先輩の」
「何がって、いつも話してるじゃん。全部だよ。不器用なとこも、頼りないとこも、へらへらした笑い方も、タイミング悪いとこも、良い父親ぶってるとこも」
「それって良く言えば、優しくて、穏やかで、心が広くて、時々ドジっ子で、それでもいつもニコニコ笑ってて、神のような仏のような、頼りがいのあるパートナーってことでしょ?」
「良い風にとりすぎ」
「そんなことないよ。我が部の共通認識だったじゃん」
「あ、学校内の、だったかな」と訂正する優子に、「規模を大きくしないで」とたしなめた。
「私も何度も助けられたなあ。失敗しても、大丈夫、大丈夫なんて笑ってさ。優しかったなあ。あの笑顔と優しさに何度救われたことか。ほら、卒業式の時もさ、一緒に怒られてくれたじゃん。先輩、自分の卒業式だったのに」
優子が語る思い出話を自らの記憶から引き出す前に、「その代わり自分の失敗にもおおらかだけどね」と私はぴしゃり弾くように言った。
「人間、それぐらいがちょうどいいんだよ。優しいんだからいいじゃない?」
「優しいだけじゃダメでしょ」
「十分じゃん。その証拠に、先輩ってモテてたし」
「たいして顔が良いわけでもないのに」としれっと失言を漏らす優子に、私の口から「こらっ」と軽く、しかし鋭い叱責が飛ぶ。
だけど優子はそれをさらりと受け流して、したり顔の大きな瞳をこちらに向けて言った。
「結局女子は、優しい男が好きなんだよ」
「思わせぶりな態度で女子をたぶらかしてただけでしょ?」
「ひどい言い方だなあ、もー。そういう早矢香だって、先輩のこと追っかけてたじゃん。先輩追って部活入ったんじゃなかったっけ?」
「違うよ。優子が私を誘ったんでしょ?」
「でも私が誘った時は、部活には入らないって、頑なに拒んでたじゃん。心変わりする何かがあったんでしょ?」
その言葉に、私の頭の中でふわりと柔らかな風が吹いた。ちらつく記憶の残像を、鬱陶しく振り払う。
「ただの気まぐれだよ」
「早矢香が気まぐれ? じゃあ、私の知らない間に、先輩と仲良くなってたのも、気まぐれだったの?」
「私だけじゃない。みんなそれなりに仲良かったでしょ?」
「私はてっきり、水野先輩目当てで入部したと思ったんだけどな」
返事をしなかった。認めたからじゃない。不服だからだ。
私の無言をどうとったのか、優子はにやりと笑みをよこしてから話を続けた。
「まあ早矢香の気持ちなんてバレバレだったけどね。ほら、先輩が校外学習で買ってきてくれたお菓子のお土産だって、『私がこのお菓子の缶もらっていい?』って必死だったじゃん。ほんと、あの時の早矢香は見てて微笑ましかったよ。早矢香はあんまり自分の恋愛のこと話したりするタイプじゃなかったけど、全身から先輩が好きって気持ちがあふれててさあ。先輩のことで一喜一憂してるのが手に取るようにわかって、「わあ、この子恋してるよ」って、勝手にみんなとキュンキュンしてたよ」
優子は頬に手を当てて、一人はしゃいでいる。
「あの頃からずっと変わらず好きなんだもんね。一途だねえ」
優子がしみじみと話す淡く甘い思い出は、私の中では靄がかって何も見えていなかった。その記憶も、その感情も、その感覚も、私の手ではもうつかめないほど、薄れて、消えかかっている。
「恋なんて、してないよ」
自分でも哀れと思える声がポロリと出た。
「好きなんて気持ち、とっくになくなってるよ」
「ちょっと、どうしたどうした? そんな深刻そうな顔して」
「深刻だよ。ずっと深刻だって言ってるじゃん。深刻でしょ? こんな結婚生活。好きでもない人と夫婦でいるって、どう考えても深刻じゃん。別れた方が良いかもって、本気で思ってるんだから」
「早矢香、ちょっと落ち着きなよ」
いつの間にか声を大きくしていた私に、優子は慌てるように声を潜めて言った。その視線は私にではなく、こちらの状況など我関せずで動画を見続ける子供たちに向けられていた。そして潜める声に鋭さをこめて言った。
「別れるなんて、軽々しく言うもんじゃないよ。子どもだっているのに」
珍しく優子が私をたしなめるような口調で言った。優子に諭された私の目には、うっすらと涙が浮かび始めていた。そんな私の様子に、優子は今までの発言や態度を反省するような表情で「そこまで深刻だったとは」と気まずそうに言った。
私の目の前に座り直した優子は、「はあ」と一つ大きなため息をついてから、今日のファッションには似合わぬ低い声で聞いてきた。
「そもそもさ、結婚生活続けるために、相手を好きじゃなきゃダメなの?」
優子からの突拍子もない質問に、私のあんぐり開いた口から「は?」と声が漏れ出た。その質問の意味がまったく理解できず、思わず失笑してしまった。
「ダメでしょ。だって、結婚って好きな人とするもんでしょ? 好きじゃなくなったら、結婚生活なんて続けられないじゃん」
「早矢香はピュアなんだね」
「そういうことじゃないじゃん。優子だって、好きだから一緒にいるんでしょ?」
優子は腕を組んだまま「うーん」と体をのけぞらせて考えた。その回答がすぐに帰ってこないことに、私は戸惑った。
「好きかどうかなんてさ、どっちでもよくない?」
「え?」
「だって結婚して子供もいるんだよ。家事して育児して、一日を終えるのが精いっぱいの毎日の中で、相手を好きかどうかなんて、考えてる暇なんてなくない? 正直どうでもいいよ。考える優先順位としては最下級だよ」
優子はどこか諦めたような、投げやりな言い方をしている。
この妖精のような姿に、腕組みと眉間の皺は、本当に似つかわしくない。目の前にいるのはファンタジーの中のフェアリーな仲間ではなく、現実世界のいたって現実的な友人だった。その口から語られる冷たげで、どこまでも現実味を帯びた忠告に、私はひれ伏すように顔を下げた。そこから、情けなく小さな声が、ぼそぼそとこぼれた。
「でも、こんな気持ちで結婚生活続けるのは、よくないでしょ? お互いにとっても、子供たちにとっても。こんな関係の両親のもとで、子どもがまともに育つわけないじゃん」
「じゃあ別れたらお互い幸せなわけ? 颯ちゃんも俊ちゃんも幸せになれるの?」
その質問に私は答えられなかった。そんなの、別れてみないとわからない。だけど今の状況でいいとも思えないのも確かだ。
「私は、颯ちゃんと俊ちゃんのこと思うんなら、相手に寄り添う方法を考えた方がいいと思うけどな。それは、先輩のためにも、早矢香のためにも」
優子は指を絡めたその上に顎をちょこんと乗せて、私を諭すような優しい目で言った。私はその目から逃げるようにそらした。
「そんなの、どうやって……」
わからないから、今苦しいのに。
自分でもわかっているのだ。別れようなんて、そんな馬鹿なこと、本気で考えていない。別れたところで社会人経験もない専業主婦の私がこれからどうやってやっていくつもりなんだという話だ。
子どもたちはどうする? 片親で育てていく自信なんて、ない。
だけど別れる方が良いのか、このままの気持ちで結婚生活を続けていくのか、どちらが正しいのかは、わからなかった。
どちらがお互いにとって良いのか。
どちらが、子どもたちにとって良いのか。
「だったらさ……」
悶々と考えている私の頭上に、優子の明るい声が、ピカリとしたひらめきの音と共に降り注いだ。
「また好きになればいいんじゃない?」
「……は?」
視線を上げると、優子はきらきらした眼差しを私に向けて詰め寄ってきた。
「先輩に、もう一度恋したらいいんだよ」
しばらく間があった。その間に、私は何度か瞬きをした。
またしばらくすると、私の口元からは「はっ」という笑いと共に力が抜けていった。
「そんなの無理でしょ」
そんな私に、優子はきょとんとした顔で「なんで?」と聞いてくる。
「今まさに冷めてる真っ最中なのに、ここからもう一度恋するって、無理に決まってんじゃん」
「でも、早矢香は好きって気持ちがないと結婚生活ができないって思ってるんでしょ? だったら、また好きになるしかないじゃん」
「それはそうだけど……。いや、そもそもそういう問題じゃなくて」
「そういう問題でしょ? 好きじゃないと結婚生活が続けられないって言ったのは、早矢香じゃん」
「そうだけど、今さら相手に恋愛感情なんて、無理に決まってんじゃん。もう高校生じゃないんだから」
「そんなの、やってみないとわかんないじゃん」
「やるって、何すんの? もう一度恋する方法でも探す?」
「ああ、それいいねえ」
優子は顔をパッと明るくさせると、早速、スマホの上で指先を躍らせた。その楽し気な姿に、私は呆れるしかなかった。
「そんな方法、調べたって出てこないよ」
「まあまあ、早々にあきらめないでよ。今の時代ネットで調べれば何でも出てくるんだから」
「まさか……」
「ほらっ!」
優子はきらきらした目と一緒に私の方にスマホを掲げてきた。
「……うそ……」
半信半疑と興味本位で優子が差し出したスマホを見た。
検索バーには、
__『もう一度恋する方法』。
安易だけど大胆に、ダイレクトに行ったもんだと半ば感心した。そこには、ずらりとその答えらしきものが並んでいた。
「もう一度恋する方法」とやらが、この世の中にこんなにも存在するのかと内心驚いた。そしてその答えを求めている人も、私だけでなく少なからずいるという事実を見せられたような気がした。
だけどその答えと解説を途中まで読んで、「はあ」っとため息が出た。
「こんなの無理」
「え? なんで? やってもいないのに」
「まず一つ目の『一日二人でデートをする』。子ども二人いるのに、無理でしょ。うちは親も近くにいないし。それから次の『とりあえず相手に触れてみる』。今さら触るとか、気持ち悪いから。向こうも急にどうしたってなるでしょ?」
「先輩は嬉しいんじゃない?」
「そんなわけないじゃん」
「そうかなあ……」
「そうだよ」
「じゃあこれは? 『相手の好きなところを挙げてみる』。これ、よく聞くよね」
「相手の好きなとこ……」
「うん。あるでしょ? 好きなとこ」
「んー……ない」
「えっ。ウソ。あるでしょ?」
「ないよ」
「あるじゃん。優しいとことか、ポジティブなとことか。他にもいろいろ。今さっき先輩の魅力について話したばっかなのに」
「そういう優子はどうなの? 旦那さんの好きなとこ、言える?」
「私? うーん……」
優子は顎に指を置いてしばらく考えたのち、「顔と経済力かな」とさらりと言った。
その答えに、どう反応していいのかわからなかった。
そんな空気を切り捨てるように、優子は次の項目に移った。
「じゃあさ、これこれ。『相手を好きになった日のことを思い出す』。これいいんじゃない? 初心に戻ってさ」
「なんで好きになったかなんて、それこそ忘れたよ」
そんなこと思い出して、何になるんだろう。過去に戻れるわけでもないのに。あの頃と同じ気持ちを取り戻すことなんて、できないのに。
ほんとバカげてる。今さら夫を好きになるなんて。恋をするなんて。
そんな青春じみたこと、している余裕はない。
子どももいるのに。
それに、もう手遅れなんだ。
私が心の中で密かにそう締めくくったところで、優子が「あ、これもいいんじゃない?」と、明るい表情と共にスマホの画面をこちらに向けた。そこにはこう書かれていた。
『とりあえず、「ありがとう」と言ってみる』
「とりあえずって……」
恋って、そんな簡単にできるもの?
そんな、「とりあえず……」で。

