「何それ、アオハルなの?」
目を潤ませ、鼻をぐずぐずとさせながら、優子は声を震わせて言った。
そして鞄からティッシュを取り出すと、豪快に洟をかんだ。
「さすが水野先輩だなあ」
その声には、どこか懐かしむ響きがあった。
その言葉に、私も無意識に「うんうん」と小さくうなずいていた。
洟をかみ終えた優子が、そんなしとしととした空気を切るように、呆れかえった声で今回の総括を行った。
「結局のところ、家事と育児に追われて、相手を見る余裕も、自分の気持ちと向き合う余裕もなかったってことでしょ? 私の言った通りだったんじゃん。つまるところ、忙しさで忘れちゃったんだよ。相手を思いやる気持ちとか、相手の大切さとか、自分の気持ちと向き合うとか」
「うーん、そうなのかなぁ……」
「だって、「忙しい」も「忘れる」も、漢字で「心を亡くす」って書くでしょ?」
私はその滑らかな口調に合わせて、頭の中に漢字を思い浮かべた。
「忙しさ」は、「心を亡くす」こと。
「忘れる」は、「心を亡くした状態」。
確かに、私は日々の忙しさで何もかも忘れてしまっていたのかもしれない。だから間違えてしまった。苛立ちをぶつける先も、向ける矛先も。
私の敵は、この慌ただしく余裕のない日常なのに、浩介や子どもたちに、その矛先を向けてしまっていたのだ。
もうこれは反省するしかない。だけど、それと同時に気づいたこともある。
私は、浩介を嫌いになったわけじゃないということだ。そして、子どもたちを愛せないわけではないということも。
それに気づけて、心底ほっとした。
私は大丈夫だって、思えた。
「心を亡くすって、ほんと厄介よね」と優子は嘆いた。
「まあ、好きって気づかなきゃ、恋は始まらないからね」
上手いこと言うな。
だけど優子の言葉に、すべての物が胸の中ですっと落ちていった。
__好きって気づかなきゃ、恋は始まらない。
好きって気づいたときが、恋のはじまり。
「良かったよね、好きって気持ちがちゃんとお互い残ってて。それに気づけて。残った炭酸ジュースに炭酸入れ直せば、またぶどうの炭酸ジュースになるもんね」
一瞬「何を言ってるんだ?」と思ったけど、すぐに合点がいった。
今日の優子は妙に冴えてる。
思わず口元を緩めると、優子のニヤついた顔に捕まった。
「早矢香変わったよね。顔色も前よりいいし。その髪型もなかなかいいよ。高校生の頃の早矢香見てるみたい」
「そう?」
私は気恥ずかしさから逃げるように、短くなった髪に手を伸ばした。指先が、髪の隙間をするりと通り抜けていく。
伸びきって傷んだ髪を、バッサリと切った。地の色と変わらない色に染めた。白髪隠しだけど。その長さは高校生の頃と同じ、肩ぐらいのボブだ。自分でも心機一転のつもりで切った。その結果、この長さがしっくり来た。
「先輩も早矢香に惚れ直したんじゃない?」
「髪切ったぐらいで惚れ直してたら、心臓もたないよ」
「でも何か言ってたでしょ?」
「うん、まあ……かわいい……とか……」
ぼそぼそ言う私に、「のろけるなー」と棒読みで抗議の手が上がる。
照れくささに顔がほてり始める。店内は冷房が効きすぎるくらい効いているのに、私は手で団扇を作って、熱を帯びていく自分の顔を煽った。
「でもさ、私のアドバイスも役に立ったんじゃない?」
「え?」
「ほら、これ」と優子はスマホを素早くたたいて、画面を私の方に向けてくる。そこには、
__もう一度、恋する方法。
あの時検索した画面が出ていた。
「昔のことを思い出すとか、相手を好きになったときのことを思い出すとか。いろいろやってみたんでしょ?」
確かに、意図せず実践していたことは間違いない。その結果、ネット検索通りの芳しい結果を得ることができたのも否定しない。
「あとさ、調べてたらこんなのも出てきたよ」
「え? まだ調べてたの?」
恋愛に対する貪欲すぎるほどの優子の好奇心にぎょっとしながら、「あ、ありがとう」と一応礼だけ言ってその画面をのぞいた。そこには、
(一日一回は「好き」と伝える)
「今日はもう言った?」
「言うわけないじゃん。子どももいるのに」
「二人きりの時にコソコソって言えばいいだけじゃん。それに、別に子どもの前で言ってもよくない? 両親が仲良くしているところを見て育った子供は、自分の結婚相手や恋人選ぶ時も、両親の姿を参考にするらしいよ」
「別に参考にしてくれなくていいよ。そんな姿見せる方が恥ずかしいし」
「え? なんで? きっと颯ちゃんも俊ちゃんも嬉しいと思うよ」
「いや、どうかなあ……」
そのタイミングで、まるで助け舟を出されたかのようにスマホにメッセージが届いた。
窓の外を見ると、通りの向こう側で、浩介と颯太と俊介が信号を待っていた。
その光景に、ふっと頬が緩んだ。

