もう一度、君に恋する方法


 久しぶりに浩介の家にやってきた。 
 合鍵を使って家に入ると、当然だけど誰もいなくて、部屋の中は真っ暗だった。 
 部屋は広くなったのに、相変わらず足の踏み場もないくらい物が散乱していた。流しには食器がそのままになってるし、洗濯機も洗濯物であふれている。 
 生活力のなさは、学生の時よりもひどくなっている気がする。

 とりあえずゴミをゴミ袋に入れることから始めた。無心にごみを捨てていく。それから食器を洗った。もう夜だし、干せる場所も限られているというのに洗濯を三回もまわした。
 散乱したものを拾い上げて、並べ替えた。
 買い物に行って、料理をして、お風呂の準備をした。 
 玄関先に置かれている段ボールの山を一つにして、空いた段ボール箱を畳んだ。 

 家はみるみるうちにきれいになり、殺伐とした家の中には生活の匂いが漂い始めた。

 私だって別に家事が得意なわけではない。私の部屋だって、ここほどではないけど荒れている。最低限にしか片付いていないし、ご飯を毎日作るわけでもない。だけど、どうしてだろう。自分の家では湧かないようなやる気があふれてくる。 

 浩介の使いやすいように。 
 浩介を思って。 
 
 それをやり甲斐に感じた。 

「浩介のために……」そう思うだけで、目の前のことが全部楽しく感じた。

__浩介を支えていくことが、私の生き甲斐。
 
 家事をしながら感じる手ごたえに、嬉しさで体が震えた。 

 クローゼットの中に押し込められた衣類をたたんで収納ケースにきちんとしまい終わったタイミングで、玄関の方でガチャガチャっという音が聞こえた。そしてすぐに、玄関が開けられた。

「あれ? 早矢香?」

 玄関先から少し驚いたような声が聞こえた。私は意気揚々と玄関に出迎えに行った。そこで出会った浩介は、明らかに疲れ切っていた。 
 時刻はもう、夜の十一時半だ。こんな時間にしか帰ってこれないなんて、よっぽど仕事とは大変なのだろう。

 よろめくように靴を脱ぎながら、浩介は弱々しい声を私に向けた。

「珍しいね、こんな時間まで早矢香がうちにいるなんて。明日も朝から授業入ってなかったっけ?」

 そう言いながら、浩介は家の中の変化を見渡した。

「掃除、してくれたんだ? 洗濯も」
「うん。ご飯もできてるよ」

 私は得意げにそう言って、ご飯の準備をしようとした。すると浩介の疲れ切った声が私を制した。

「そんなこと、しなくていいのに」
「……え?」
「早矢香、今就活で大変なんでしょ? 俺のことなんていいから、自分のこと考えなよ」

 いつもとはどこか違う浩介の空気に戸惑った。
 いつもなら「ありがとう。助かるよ」、「さすが早矢香だね」と、褒めてくれるのに。
 今日はなんだか違う。 

 私は返事もできなくて、ただその場で瞬きを繰り返した。

「電車、最終ってまだあったっけ? 駅まで送るよ」
「……え?」

 期待していた展開とは裏腹の言葉を投げられ戸惑い続ける私を無視して、浩介は再び靴を履き始めた。

「あの……今日は、泊まってっちゃダメ?」

 そう言った私の方に、浩介のぎろりとした目が向けられた。その生気のない目に、体がぞくりと震えあがった。
 浩介は私から視線を逸らして正面を向くと、はーっと大きくため息のような息を吐いた。

「こんなところで、こんなことしてる場合じゃないだろ。明日も学校なんだし。就活の準備もあるだろ? もっと自分の将来のこと考えろよ。俺なんかにかまってる暇ないじゃん」

 浩介が淡々と、それこそ表情のない声で言った。

「なんで、そんなこと言うの?」

 声が震えていた。
 その震えを振り払うように、私は声を張って言った。

「私は、浩介といたいの。浩介と一緒にいるのが楽しいし、こうやって浩介の身の回りのことできるのが嬉しいの。将来のことならちゃんと考えたよ。私は、ずっと浩介のそばにいたい。浩介の、お嫁さんになりたい。就職はしない。私は今すぐにでも浩介と結婚……」
「何言ってんだよ」

 浩介の厳しい声が飛んだ。その声に、私の体も、ほんとに吹き飛びそうな勢いだった。

「何甘いこと言ってんだよ。人生って、そんな甘くないよ。今すぐ結婚って、俺たちやっていけるの? これから先どうなるかわかんないのに。俺だってまだ仕事始めて一年半だよ。そんな俺に、自分の人生託していいの? 絶対後悔するよ。こんな俺と今結婚したって、早矢香は幸せにはなれないよ」

 耳に入る言葉が、全部浩介の口から繰り出されているものとは到底信じがたかった。
 呆然とする私の口からは「なんで?」という言葉以外、出てこない。

「どうしたの? なんか、浩介らしくないよ。そんなこと言うなんて」
「別に、ほんとのこと言ってるだけじゃん。事実を言ってるんじゃん。世の中は早矢香が考えてるほど甘くないんだよ。もっと現実見なよ」
「私だってちゃんとわかってるよ。でもちゃんと考えもした」
「その結果が専業主婦?」
「浩介を支えたいって気持ちの何がいけないの? やりたいこともないのにとりあえず就職して、とりあえず社会人経験だけ積んで、それで浩介とすれ違うばっかりの日々を過ごすよりずっとずっといいじゃん。私はもう嫌だよ。浩介とすれ違いの生活なんて。会えないなんて」
「それは早矢香の理想だろ? 理想だけで生活はできないんだぞ。今の俺の給料でどうやって二人で生活してくんだよ。貯金だってない。今のままじゃ子どもだってできない。それで早矢香は幸せなのか?」
「子供は欲しいけど、浩介と二人でだって十分幸せだよ。働いた方がいいってことなら、パートでもなんでもやる。でも就職はしない。私のやりたい仕事はこの社会にはない。私がやりたいことは、浩介のそばで、こうやって浩介を支えることだか……」
「そんなの、就活から逃げてるだけだろ」

 浩介の鋭い声が私の言葉をぴしゃりと遮る。そして呆れたように大きなため息をついてから言った。

「就職できないから俺と結婚とか、マジで迷惑。そういうことは他の人とやって」
「他の人って……」
「ほんと早矢香は頭硬くて困るよな。一度言い出したら聞く耳持たないんだから」 

 そう言いながら浩介はふらりと立ち上がると、玄関の扉を乱暴に開けた。

「用がないならもう出てって。こっちは仕事で疲れてるんだから。学生の相手してるほど社会人は暇じゃないんだよ」

 私に刺さる視線が、「早く出てけ」と言っている。その視線と圧力に足が震えた。
 頑なにその場に立ち尽くしていると、小さく舌打ちをした浩介に、思い切り腕を引っ張られた。
 靴もまともに履かせてもらえないまま、私は家の外に出された。

「私をお嫁さんにしてくれるんじゃなかったの?」

 咄嗟に早口で呟いた言葉に、扉が閉められる気配が止まった。
 一瞬の間が空いてから、浩介は鼻で笑って返した。

「そんなこと、まだ本気にしてたの? そんなの、高校生の戯言だろ。高校生なんてさ、社会のことも人生のことも、何もわかってないんだから。その場のノリっていうの? そんな子どもの時の話を蒸し返されても困るんだけど」

 ほんとに迷惑そうな浩介の声に、もうその場に立っているのも辛かった。
 だけど浩介は、それから扉を閉めようとはしなかった。
 浩介は、仕方がないといった空気を滲ませたため息をついて言った。

「今日はもう遅いから、泊まってけば。こんなことやってる間に終電もなくなっただろうし」

 扉をグイっと大きく開けて留めると、浩介はすたすたと家の奥に入っていった。
 私はしばらくその場で立ち尽くした。そして、その言葉の中に、その仕草の中に、私の大好きな人の残り香を探した。

 優しくて、穏やかな、水野先輩。
 前向きで、いつも笑顔の、浩介。

 だけどそこには、「水野先輩」も「浩介」もどこにもいなかった。
 私と青春を重ねてきたはずの愛おしい人は、どこへ行ってしまったんだろう。