「もう少しゆっくり出てもいいんだよ」
浩介はそう言ったけど、私たちはチェックアウトの時間よりもずっと早くにホテルを出た。気まずい空気に耐えられなかった。外に出たところでその空気は変わらないこともわかっていたけど、あの狭い空間の中に閉じこもっているより幾分マシだと思った。
早い時間にホテルを出たはずなのに、太陽はもうギラギラと地面を照り付けていた。夏本番を通り過ぎたものの、肌を焼き付ける日差しの力に衰えは見えない。
「涼しい所、歩いていこうか」
浩介がそう言って指さしたのは、道路を挟んで向こう側にある神社だった。見上げれば、木々が空の青さを隠さんとばかりにどこまでも生い茂っていた。
鳥居の前まで来ると、その奥は日影がずっと先まで続いているのが覗けた。
鳥居をくぐった瞬間、空気はがらりと変わった。
直射日光に照りつけられて火照った肌を、冷たくて優しい空気が包み込んでくれる。風もないのに、ひやりとした空気が頬をそっと撫でた。砂利を踏む音さえ耳に心地よく、足元から頭のてっぺんまでピリリと良い緊張感が走った。
木陰の多い境内を進んでいくと、その先にはお世辞にも立派とは言えない本殿があった。年季の入った賽銭箱の前には、カップのお酒と缶コーヒーがお供え物のように置かれている。その奥に見える御祈祷所からは、「おいで、おいで」と、目に見えない何かの声が私たちを呼んでいるようだった。
ここに立っているだけでも十分外とは空気が違うのがわかるけど、この奥はきっと、もっと清い空気が流れているのだろうと肌で感じた。
本殿まで進んだ浩介は、それが当然のように、参拝の態勢に入った。
財布から小銭を出すと、一枚を「はい」と言って私に手渡した。
「え? いいよ」
「お参り、しないの?」
「自分で出すから」
「これぐらい、いいよ」
「いいってば」
思わず大きな声が出た。
動揺した瞳で、浩介が私を見やる。その目から、私はすぐさま視線をそらした。
どうしてだろう。何をイラついているんだろう。生理のせい? ホルモンバランスの乱れってヤツ?
ああ、何もかもが嫌になる。素直に受け取れない自分も、「ありがとう」と言えない自分も。浩介の優しさも、気遣いも。
「そっか。ごめん」
浩介は弱々しくそう言って、出した小銭を二枚とも賽銭箱に投げ入れた。そしてジャラジャラと鈴を鳴らして、手を合わせた。
私はその場に立ち尽くしたまま、お賽銭を投げることも、手を合わせることもしなかった。ただ、この空気を何とかしてほしいと、こんな私を救ってほしいと、神様に願った。すがりたい気持ちでいっぱいだった。
__小銭を入れて手を合わせれば、何とかしてくれる?
もちろん、答えは返ってこなかった。
私が本殿の奥にいるであろう神様を睨みつけて立ち尽くしている間、浩介はずっと手を合わせていた。
その姿を顔をしかめたまま見ていると、
「もう、帰ろうか」
その態勢のまま、突然浩介が言った。
浩介は合わせていた手をすっと下ろすと、私の方に目を向けた。その目が、とても寂しげだった。
「帰る?」
その目から逃げるように顔を伏せた。
そうだな。もう帰ろうかな。すでに暑いし、生理だし。気まずいし。何もかも、嫌だし。
私は小さく首を縦に振った。その横を、浩介がすっと通り過ぎて行った。
私もその後ろについて歩き出そうと振り返ったその時、「あ」という声がしたと思ったら、顔に衝撃を受けた。
一番ダメージの大きかった鼻先を抑えて顔を上げると、すぐ目の前に、浩介の背中があった。
「あ、ごめん」と浩介は慌てて一瞬振り返ったけど、またすぐに視線を戻した。
「雨」
その声に導かれるように、私も視線をそちらに向けた。
先ほどまで雨の気配なんてなかったのに、いや、今でさえ雨が降るような空模様ではないのに、雨が、パラパラと降り始めていた。
「天気雨かな」
浩介は空の中を覗き込むように、顔を空に伸ばした。
私も無意識に、同じように首を伸ばした。
広がる青空の下に、無数の線が描かれる。その一本一本が、太陽の光を浴びてキラキラと光る。
しばらく二人で、その不思議な空模様を見ていた。だけど、一向に雨が止む気配はなかった。
「おみくじでも引いて、止むの待とうか」
そう言いながら、浩介は本殿の奥に戻っていった。
向かった先に、パイプ机がぽつんと置かれている。そこに、上の部分が丸くくり抜かれたアクリルボックスがひとつあった。
浩介はしばらくその前で立ち尽くしてから、おもむろに、ズボンのポケットから財布を出した。そして、アクリルボックスの隣に置かれた賽銭箱型の貯金箱にお金を入れて、箱の中に手を突っ込んだ。
ペリペリと、おみくじを開く音が小さく聞こえた。
「お、小吉」
そこで、言葉が途切れた。
浩介は熱心にくじを読んでいるようだった。時折、「うん、うん」なんてうなずきながら。
そして読み終えたのか、くじをもとの形にたたんだ。
「早矢香はひかないの?」
浩介の問いかけに、私は無言で机に近づいた。
おみくじを引きたい気分ではなかったけど、気がまぎれるならと、すがる思いで近づいた。
机に近づいてアクリルボックスの中を確認すると、くじと一緒に和紙で作られた人形が一つ一つビニールに包まれてぎっしり詰め込まれていた。よく見ると、人形の表情も、つけた髪飾りも、着せた着物の色や模様も、全部違った。
私はアクリルボックスの横側からそれをじっくりと見て、手を入れた。そしてお目当ての人形を選び取った。ピンクの花柄模様の着物を着て、お団子頭に黄色の髪飾りを付けた人形だ。
ビニールからくじを取り出して、細長くたたまれたくじをゆっくりと開いていった。そこに書かれていた結果は、末吉だった。そこにはこう書かれていた。
(常に胸の内に靄が広がる状態が続く。)
なるほど、当たってるではないか。
私の心の中は、真っ白で、何も見えない。
手を伸ばしても手応えは全くなくて、感触をつかみかけた途端、すっと霞の中に消えてしまう。
もう靄だか霞だか、判別もできない。
この靄は、いつまで続くんだろう。家に帰るまでだろうか。生理が終わるまでだろうか。どうしたら、晴れるんだろう。
「ふーん、なるほど」
浩介の声がすぐそばから聞こえて、体がびくりとのけぞった。
浩介は瞳を輝かせて私の手元のおみくじをのぞき込んでいる。
「あなたが笑えば、周りもまた笑い、靄も晴れ、日差しが差す」
まるで歌うように、その声はゆるやかに流れてきた。
「いいね。早矢香にぴったり」
確かにおみくじの続きには、そう書かれていた。
その言葉を、私は忌々し気に読み返してから、長細く折りたたんだ。
そして、パイプ机のそばに置かれていた横方向にワイヤーが張り巡らされたくじ掛け処に、乱暴にくじを巻き付けて結んだ。
「……どこが?」
結ぶ手つきと同じような、乱暴で、投げやりな声が出た。嘲笑めいた冷たい声にも聞こえた。
「どこが私にぴったりなの? そもそもおかしいでしょ。こんなの。私が笑ったらみんなも笑ったり明るくなったりするなんて。そんなことあるわけないじゃん。私は魔法使いでも神様でも、お笑い芸人でもないんだよ」
「でも俺は、早矢香が笑顔だと嬉しいよ」
「そう言えば私が笑顔になるとでも思ってる?」
パンパンに膨れ上がった袋に開けた小さな穴から、抑えていた感情が勢いよく飛び出したように、大きな声がわっと出た。小さな切り口から、言葉がとめどなくあふれてきた。
「自分もまともに笑えないのに、どうやって人を笑わせろって言うの? 笑わせるどころか、心配させて、気遣わせて。そりゃあ、私だって笑いたいよ。笑顔にしたいよ。明るくしたいよ。でもできないんだよ。世の中には自分が辛くても、苦しくても笑ってられる人っているけど、私はそうじゃないから。辛い時は泣きたくなるし、楽しくないときは全然笑えない。だって私は、強くもないし、優しくもないから」
__浩介みたいに。
そう思った瞬間、急激に浩介のそばに立っていることが恥ずかしくなった。
私は浩介みたいにはなれない。浩介のそばにいる資格がない。浩介の彼女に相応しくない。そんな呆れてしまうほどの子どもっぽい心、もうとっくの昔に卒業したはずなのに。
今さら自信がなくなる。
浩介はこんな私を、一体どんな目で見ているんだろう。
逃げ出したかった。この場から。この空気から。浩介から。
雨の音が激しさを増していた。
地面を叩きつけるように降る雨が、激しい水しぶきを巻き上げる。そのせいで、景色が白んで見える。
屋根の下にいる私たちにも容赦なく襲いかかってきて、肌が露出した部分を濡らしていく。濡れた自分の腕を抱きしめながら、私は本殿の奥の方を睨みつけてあざ笑うように言った。
「誰かを笑顔にしないと靄が晴れないなんて、ひどいよね」
そんな私の声を、雨の音がかき消していく。
「心の靄が晴れなきゃ、笑えないのに。順番、逆じゃん」
何言ってんだ、私は。
震える声が、泣いているせいなのか、笑っているからなのか、わからなかった。
言っている意味もわからない。
自分が何にイラついているのかも、何が悲しいのかも、何が不安なのかも、不満に思っているのかも、もうよくわからなかった。
私の心の中は、やっぱり、真っ白だ。
何も見えない。何も聞こえない。
雨の音が私の声を空しく消していく。そのまま、私の存在自体も消してしまいそうだった。
でもそれでいい。もういっそのこと、全部消えてしまえ。靄になって、消えてしまえ。
そう願った。その時、
「だったら、笑わなくてもいいんじゃない?」
ふわりと優し気な吐息のような風がさらさらと目の前を通り過ぎて、その風に揺れた雨粒がぴしゃぴしゃと頬を叩いた。
「え?」
「笑えないなら、笑わなくていい。それでいいんじゃない?」
視線をゆっくり上げると、浩介の穏やかな顔が、しっとりとした景色の中に見えた。
「早矢香は無理に笑わなくていい。俺が笑わせるから」
力強い言葉に、一瞬心が緩む。
だけど私はかぶりを振って、歯向かうように声を荒げた。
「そんなの、嫌だよ」
「……なんで?」
「浩介はそうやって私の顔色うかがいながら付き合ってて楽しい? そんなのしんどいじゃん。私だって、そんな思いさせるの嫌だよ。私は浩介が困ってる顔なんて見たくないし、困らせたくないし、迷惑もかけたくない」
動揺したように声も体も震わせる私に、少ししてから、浩介のはっきりと、やっぱり力強い声が言った。
「そうはならないと思うよ」
「え?」
「だって俺は、早矢香を笑わせたいから。俺が、早矢香を笑わせたいから」
「どういう、意味?」
浩介はゆったりと本殿の方に体を向けてから、穏やかな声で答えた。
「早矢香には笑っててほしい。俺は早矢香の笑顔が好きだから。だけど、ただ笑っててほしいわけじゃない。そりゃ笑っててくれたら、それはそれで嬉しいけど。でもやっぱり、好きな人は、自分の力で笑顔にしたいじゃん。他の人が笑わせたんじゃ、意味がない。早矢香の笑顔のきっかけは、いつも俺でありたい」
「だからさ、早矢香」と、浩介は私に優しい目を向けた。
「「笑って」なんて言わない。俺が笑わせるから。早矢香が笑ってくれたら、俺も笑顔になれる」
浩介はそう言うと、再び本殿に顔をまっすぐと向けて、唐突に聞いた。
「ねえ早矢香、神社に行く目的って、なんだと思う?」
「え?」
そんなの、考えるまでもない。
「神様に、お願いするためでしょ?」
「それが、違うんだよ」
浩介が得意げに否定した。
「神社に行く目的は、神様に日頃の感謝の気持ちを伝えたり、決意表明したりするためなんだって」
「テレビの神社特集で見た」と浩介はいたずらっ子のような笑みを見せた。
「よくよく考えたら、そうだよな。だって、結婚式で「幸せになれますように」ってお願いする人なんていないもんな。「幸せにします」とか「愛し続けます」って、誓うんだもんな」
浩介の言葉に、私も「確かに」と心の中で納得した。
「神社は願う場所じゃない。誓いの場所だ。だから俺も、神様に誓う」
そう言いながら浩介は再びズボンのポケットから財布を出すと、お賽銭箱に小銭を投げ入れた。そして勢いよく鈴をジャラジャラと鳴らし、柏手を二回打った。その音は、神社の隅々にまでよく響いた。
「俺は、早矢香を笑わせます。これからも、ずっと。俺が早矢香を笑顔にします。そして今度は、俺が卒業旅行に連れて行きます」
「……え?」
手を合わせたまま、浩介は視線だけをこちらに向けてにこりと笑った。
「早矢香の卒業旅行、一緒に行こうよ。今度はお金しっかり貯めてさ、豪華に、贅沢に。お金も時間も、どんなことがあっても、何も気にせず、笑顔でいられるような、楽しい旅行にしようよ」
「いや、俺がするから」と、浩介は再び本殿の方に視線を向けて力強く言った。
「俺が早矢香を卒業旅行に連れていく。神様に約束する。神様の前で、嘘はなしだ」
そして最後に二度柏手を打って、すがすがしいくらいの礼をした。
その一連の流れを追いかけた目に、熱いものがジワリと来た。そしてすぐに溢れた。
また泣いた。昨日あれほど泣いたのに。苦しいくらい泣いたのに。枯れるくらい泣いたのに。
今日はちっとも苦しくない。辛くない。
力が抜けて、頬が勝手に緩んでいく。
「あ、笑った」
ぱっと顔を上げたそこに、浩介の安心したような微笑みが迎えに来ていた。
「あなたが笑えば、周りもまた明るくなる」
穏やかなその声が、愛おしい。
「神様の言う通りだね」
「神様?」
「うん。だって、ほら」
そう言って浩介が視線で指したのは、アクリルボックスが乗ったテーブルの淵に貼られた紙だった。そこに書かれた毛筆文字を、私はゆっくり目でなぞった。
(おみくじは、神様からのお便り)
「神様だって、嘘はつかないよ」
浩介はそう言って、一層柔らかな笑みをこちらに向けた。その微笑みに、まばゆい光が差した。
浩介も、まぶしそうに目を細めた。光の正体を、私たちは「あ」と言う声と共に、同時に見つけた。
いつの間にか、雨が上がっていた。今度こそ、本当の晴れ。
熱い日差しが急に背中を襲う。
光と熱が広がる景色の中に、雨に濡れた古い木材の匂いや、神社にあるあらゆる植物の匂いが濃く漂い始めた。
「うわっ、早矢香、見て、虹」
だけど、私はその指さす方に、視線を向けられなかった。目の前の、子供のように無邪気な笑みに、目が釘付けになっていた。
まぶしい。なんてまぶしい笑顔なんだろう。
雨に濡れた葉の雫が、遠くの方から差す陽射しにきらきらとその玉露を光らせる。
浩介の笑顔が、その背景の中で一層輝いて見える。
その光景に、私は息をのんで見惚れた。
好きだ。この笑顔が。
この太陽みたいな笑顔が、私の心の靄を、晴らしてくれる。
私はくじ掛け処に結んだおみくじをほどいた。
ゆっくり開くと、皺くちゃになっていた。
激しい雨のせいで、少しだけ濡れていた。
シワに合わせて、文字が歪む。
私はそのおみくじを空にかざした。
太陽の白い光が、おみくじの薄い紙を貫く。
その向こう側に、今にも青空が透けて見えてきそうだった。

