もう一度、君に恋する方法


 目的地に着いたのは、午後二時半を回ったころだった。
 駅を出たとたん、ギラギラとうるさいほど輝く太陽の熱射に襲われ、暑さと湿度で気持ち悪くよどむ空気に、何もしないうちからすでに体力も気力も奪われていく。

 私たちと入れ違いに観光を終えたと思われる人たちが、ぞくぞくと駅にやってきた。すれ違う人々はみんな笑顔で、手にお土産を持っていた。ほとんどの人が年配の男女だった。観光旅行なのか、ガイドさんが旗を掲げている。

「えっと、じゃあ、まずは……」

 そう言いながら浩介はスマホをスクロールさせる。浩介はバスの時刻表とスマホを交互に見ていた。私は何もせず、ただそこに広がる風景をぼんやりと見ていた。
 駅のロータリーで渋滞を起こしているタクシーやバスの輪郭が揺れていた。これが、蜃気楼というやつだろうか。空気が揺らめく様を見ているだけで、こちらの足元までふらついてくる。汗がじっとりと、首筋や背中を流れていく。

「とりあえず、どっか入ろう。暑いし、お腹すいたでしょ? この近くに、行きたいねって言ってたお蕎麦屋さんがあるから、そこ行こうか」

 浩介はそう言って歩き出した。
 確かに朝から何も食べていないし、その意見には賛成だ。それなのに、お蕎麦屋さんはなかなか見つからなかった。

「ちょっと駅で聞いてくる」と言って、浩介は私を涼しい日陰に置いて行ってしまう。
 その後ろ姿を恨めし気に目で追った。
 見つからないならいっそ、その店に行こうという計画なんてなかったことにしてくれてもよかった。
 ご飯を買って涼むだけなら、コンビニでもいい。
 そう言ってしまいたかった。だけど、声を出す気力もなかった。
 遠ざかっていく浩介の背中を、ただ目で追った。

 その店は、本当に私たちのすぐそばにあった。何度も何度も通り過ぎていたようだ。
 重ための引き戸を開けると、歪な振動に合わせてカラカラと音がした。その音と共に、店内の冷気が私たちを出迎えた。
 天国だと思った。
 狭い店内はカウンターが奥までずらりと並び、その反対側に座敷席が何組か用意されていた。お昼時を過ぎているので、お客さんもほとんどいなかった。
 座敷の方が冷房の効きがいいからというお店の人の厚意で、私たちは座敷席に通された。
 浩介は冷たいおろしそば、私は冷やしうどんを頼んだ。そばもうどんもすぐに出てきた。見るからに冷たそうで、乾いたのどがごくりと鳴った。だけど、思いのほか箸が進まなかった。食べても食べた感じがしなかった。
 とうとう私は途中で箸を置いてしまった。

「早矢香? 大丈夫? 食欲ない?」
「うん、ちょっとばてたかな。浩介、よかったら食べて」

 浩介は「ほんとにいいの?」と聞きながら、私のうどんまでぺろりと平らげた。

 食べ終わった浩介が、「そろそろ、行こうか?」と言ったので、「その前に、トイレ行っていい?」と浩介に了承を得てから立ち上がろうとした。だけど立ち上がろうとして目に入った光景に、血の気がさっと引いた。
 靴下のかかとのあたりが、赤く染まっている。咄嗟にばっとかかとを手で覆った。

「早矢香?」

 私が不自然な態勢のままピクリとも動かないことを不審に思ったのか、浩介が私をうかがうように聞いた。だけど、返事ができなかった。

__どうしよう。

 誰にともなく心の中でそうつぶやいた瞬間、浩介が全部食べ切ってくれた丼の中に、ポトンと音を立てて涙がこぼれた。汁まできれいに飲み干された丼のかさが、再び増していく。情けなく、鼻からも涙があふれ出す。それを、足を抑えていない方の手で隠そうとするけど、すでに片手では隠しきれないほどの涙があふれている。

「早矢香?」

 心配そうに私の名前を呼ぶ浩介に、私はゆっくりと視線をやった。

「こう、すけ……」

 名前を呼ぶのが精いっぱいだった。「ん?」と浩介は神妙な面持ちで私に近づく。
 私は無意識に、視線をかかとに向けた。それを浩介は、目ざとく追いかける。そして私のそばまでやって来ると、かかとを隠すように押さえた手をどけた。

「靴ずれ?」

 驚いているけど、冷静な声だった。その声を聞く間も、私の涙は止まらない。

「……違う」

 ぼそりと、だけど強く否定した私の答えに、「え?」と今度こそ意表を突かれた声がぽっと浮きあがる。

「あの……、これは……」

 震える手が、かかとからお尻のあたりに移動する。その手が行きつく場所に広がる血の滲みを確認した浩介が、はっと息をのむのがわかった。

「どうした? 怪我?」
「違う」

 私は大きくかぶりを振って、鋭い声で返した。だけど、次の言葉を言う時には、もうその声の勢いは萎んでいた。
 体に残った血液のすべてが顔に集まるのを感じながら、声を震わせて私は言った。

「あの……生理が……」