もう一度、君に恋する方法



 先輩の進学先は、地元から遠く離れた、新幹線を使わなければいけないような場所だった。その大学の建築学部が、先輩の進む道らしい。
 先輩は吹奏楽部に入ってから、ホールの音響や構造に興味を持ったらしく、そういう類の勉強をしたいそうだ。そしてゆくゆくは、自分もコンサートホールの建築に携わりたいと思っているらしい。

 というのは、その後、打ち上げ会場となる例の居酒屋でみんなから聞かされた話だ。さらには下宿先の間取りや周辺施設まで、事細かに教えられた。

 なぜみんなが知っていて私が知らないのか。

「もっと早く教えてよ」

 そう訴える私に、「だって、あんまり先輩の話、しない方がいいのかなって」と、優子は困り顔で返した。
 確かに、私は先輩を意識的に避けていたし、連絡も取ることはなかった。優子に先輩とのことを話すこともなかったし、恋バナ好きの優子にしては珍しく聞いてくることもなかった。
 なるほど、友達の気遣いというのはありがたい。だけど、聞かされた事後報告の衝撃は大きすぎた。

 何より、遠距離恋愛になるとわかっていて遠い大学を受験するなんて何考えてるんだと、先輩にも呆れた。だけど、よくよく考えてみれば、私たちが住むこの場所から一番近い大学でも、電車とバスを乗りついで徒歩も含めて二時間。そんな片田舎に先輩が求める建築学部があるかと言ったら、ない。そもそも、これは先輩の進路だ。当時彼女でもなかった私がとやかく言えることでもなかった。

「でも大丈夫。早矢香も先輩追っかけて受験したらいいんだから。二年なんて、あっという間だよ」

 そう優子はあっけらかんと言うけど、一体何が大丈夫なんだ。他人ごとだと思って。
 だけどその言葉通り、意外と大丈夫だった。
 私たちは毎日連絡を取り合った。メッセージを送るだけの時もあれば、電話をすることもあるし、テレビ電話だって使う。LANを通して聞く先輩の声も、顔色や輪郭も、そりゃ本物よりぐっと劣るけど、顔を見て話せるだけで、この世の中のテクノロジーに感謝したくなる。その画面から、先輩の匂いも温もりも、肌の感触も、今すぐ欲しい情報が何も伝わってこないのは確かに物足りない。だけど、そんなことどうでもよくなってしまうぐらい、先輩と話すのは楽しかった。思い出話に花を咲かせ、部活の近況報告で盛り上がった。
 先輩も一人暮らしの様子をテレビ電話を使って教えてくれた。話も笑い声も、途切れなかった。大好きな人と話すことがこんなに楽しくて、嬉しくて、幸せなことだなんて、知らなかった。

 連休中、先輩がこちらに帰って来ると、私たちは必ず会った。それがたとえ、どんなに短い時間でも。その短い時間の中で、私たちはさりげなく手をつなぎ、腕を絡め、寄り添い、人目を忍んでキスをすることを覚えた。経験したことのないドキドキがいつも隣にあって、数を重ねるごとにそれが心地よくなる。その気持ちが膨らんで、もっとしたい、もっと触れたいと、恥ずかしいくらいの欲望に成長する。こんな感情、先輩に知られたくないのに、どうしようもなく伝えたい衝動が仕草となってあふれ出す。
 胸がいつも、熱い。私たちが恋人になっていくのに、時間はかからなかった。

 どんどん好きになる。もっと好きになる。楽しさも、嬉しさも、会えない寂しさも、別れる時の辛さも、全部好きに変わっていく。この人は、私に恋させる天才だと思った。

 先輩への想いで埋め尽くされた胸の内が暗く陰ったのは、先輩の大学生活が軌道に乗り始めた頃だった。
 先輩は、大学でも吹奏楽部に入った。バイトを始めた。新しい友達ができた。そんな報告に、はじめのうちは私も「へえ」なんて楽し気に、そして興味を持って聞いていた。だけど、「久しぶり」と会った先輩に、私は時々戸惑う。醸し出す空気が、雰囲気が、私の知っている先輩じゃなくなっている。どこか大人びていて、以前にもまして落ち着いていて。そんな先輩と会うたび、どこからか焦りや不安に似た胸のざわめきがやってくる。近くにいても、先輩との距離を感じてしまう。
 背伸びをしたら、届くだろうか。
 だけど、どんなにつま先を伸ばしても、首を伸ばしても、先輩と同じ目線に立つことはできなかった。会うたびに、先輩は、どんどん大人になっていくのだから。

 高校生と、大学生。
 学ランが私服になっただけなのに、高校を卒業しただけなのに、地元を離れただけなのに、たった二年の違いなのに。
 もう、私たちの水野先輩ではなくなってしまったような、そんな喪失感を味わった。今までよりも、気持ちはずっと近くにいるはずなのに。先輩との距離が、遠い。

__「早矢香も先輩追っかけて受験すればいいじゃん」

 その言葉を真に受けたわけではないけど、私は先輩と同じ大学を目指した。行きたい学部なんて特にない。正直やりたいこともない。ただ、先輩のそばにいたかった。先輩と同じ大学を受験すれば、同じ大学に行けば、先輩に近づけるんじゃないか。私も大学生になって、一人暮らしして、バイトして、大人っぽい服着て、メイクして、大人にしか入れない場所に入って。そうしたら、同じ目線で笑いあえるんじゃないか。そう思った。
 だけどそんな受験理由を親に言えるはずもなかった。好きな人を追いかけて大学を受験するなんて、我ながらどうかしているとも思った。先輩のように、将来を見据えてしっかり考えて決断した進路でもないことに、引け目だって感じている。だけど、先輩と話すたび、先輩と会うたび、先輩と一緒にいたい気持ちが募った。何気ない日常を、先輩の隣で過ごしたい。そんな気持ちばかりが強くなった。
 一人暮らし反対派の両親を何とか説得すべく、その大学じゃないといけない理由を必死にアピールした。故に私は、担任の先生よりも、進路指導の先生よりも、その大学について詳しくなった。
 ただ気がかりなのは、大学の偏差値だった。その数字に、私は受験が終わるその日まで、冷や冷やさせられた。