「ねえパパ、ふりかけかけて」

 その声に、弁当に冷凍食品のおかずを詰めていた私の手がぴたりと止まった。
「ママ」ではなく「パパ」に頼むのは、ママにはやってもらえないとわかっているからだ。

「颯太、おかずと一緒に食べなさい」
「だっておかず、もうないんだもん」
「一緒に食べないからでしょ?」
「白ご飯だけじゃ食べれない」

 わざわざ手を止めて見に行くと、白ご飯には一切手を付けられていない。

「先に食べちゃった颯太が悪い。幼稚園では白ご飯も残さず食べるじゃん」
「あれはプライドで食べるんだよ」
「どこでそんな言葉覚えてくるの? 食べられるんだからさっさと食べなさい」

 呆れと怒りはいつもセットだ。
 そして決まって、次には私を苛立たせる。

「まあまあ、いいじゃん。今日ぐらい」

その、甘やかしの言葉で。

「今日ぐらいって、毎日同じことやってるじゃん」
「そんなこと言ったって、ふりかけ、おいしいもんな?」

 そう言って、へらへらしながらふりかけをしゃかしゃかさせる。

 どうしてこの人は、私を苛立たせることしかできないんだろう。

「ねえ、もう仕事行く時間でしょ? こんなことしてる場合じゃないじゃん。まだパジャマだし」
「まだ大丈夫だよ」
「大丈夫って、この時間に出るって言うから、その時間に合わせてこっちだって用意してるんじゃん」
「ああ……、うん、ありがとう。でも、ふりかけかけるぐらいの時間はあるから」
「何それ。だったら自分で用意して勝手に出てって」

 お弁当を詰めるのを放棄するかのように、菜箸をシンクに乱暴に投げ入れた。
「はあっ」と鋭くて、重いため息が漏れる。
 それに引きずられるように、体からがくんと力が抜ける。
 その体を支えるように、シンクに手をついて寄りかかった。

 もう疲れた。まだ一日は始まったばかりなのに。

 庭に面した大きな窓には、まだカーテンが引かれている。
 それなのに、部屋の中は妙に明るい。
 分厚い遮光カーテンを貫く真夏の太陽の日差しと熱の強さに、その存在感の大きさを思い知らされる。
 外の世界を想像しただけで、体は怠く、重く、頭が痛くなってくる。

 頭を押さえながら、キッチンからちらりと見える洗面所に目を向けると、洗濯物が散らばっていた。

__そうだ、洗濯の準備、途中だった。

 重い体を引きずってそちらに向かおうとすると、

「うわっ」

 二人の重なった声に反射的に視線を向けた。
 私の目が捉えたのは、先ほどまで真っ白だった颯太のごはん茶碗だ。
 卵の黄色と、海苔の黒と、その他いろんな茶色やら緑やらに覆われ、白の部分は完全に消えていた。

「ヤバっ、かけすぎた。……まあ、ちょっとぐらいいいか」
「ラッキー」

 二人は秘密を共有するようににやついている。
 すぐそこまで迫り来ている、私の怒りになんて、気にも留めずに。

「もおう、何やってんのお」

 腹の底から、声が出た。
 もう怒りしかない。
 呆れの入る余地はない。

「ちょっとぐらいじゃないでしょ。かけすぎ。いつもそうじゃん。いつものことなんだから、はじめからスプーン使ってやればいいでしょ? 何回失敗したら学習するわけ?」

 幸い、俊介のご飯がまだ残っていたので、スプーンでかけすぎた分を取り除き、俊介の茶碗に乱暴に入れた。
 ちらりと目に入った俊介は、どこか嬉しそうだった。

「ごめんごめん」

 怒られているのにへらへらしている父親に、私は目を剥いて迫った。

「だいたい、おかずがあるんだからおかずと一緒に食べさせるようにしてっていつも言ってるでしょ。白ご飯で食べる練習しなきゃ」
「ふりかけおいしいんだから、いいんじゃない?」
「私のおかずよりふりかけの方がおいしいって言いたいの?」
「そんなこと言ってないじゃん」
「ふりかけがなきゃご飯も食べられない大人になったらどうするの? 困るのは颯太や俊介なんだよ」
「心配するのはわかるけど、そのうちおかずとごはんで食べられるようになるよ。俺だってふりかけ派だったし。それでも今はおかずと一緒にご飯食べられるし。それよりも今は、楽しく食べられた方がいいって言うじゃん? 食べることが楽しいって経験の方が大事だよ」
「そんなこと私だってわかってるわよ。わかったようなこと言わないでよ。自分と一緒にしないでよ。大して家にいないくせに。子どもたちとそんなに関わってないくせに。私は家にいて、子供たちのことちゃんと考えて、子供たちにとって良いと思うことをしているの。それを「そのうちできる」とか「俺もそうだった」とか、そんな無責任な言葉で片付けないで」
「それはごめん。いつもありがとう」

 その言葉は、全然胸に響かなかった。
 まるでその場しのぎの、私を宥める言葉にしか聞こえない。
 へらへらとした作り笑顔も、私の顔色をうかがう視線も、全部、全部、私を出来損ないだと責めてくる。
 私を、惨めにさせる。

「どうせ、私が悪いんでしょ?」

 無言の中に、小さなため息が聞こえたような気がした。

「私がこんなんだから……、こんな私が母親だから、颯太も俊介ものびのびと育たないんでしょ?」
「何言ってんの? 十分いいお母さんじゃん。料理もおいしいし、健康的だし。家の中だって……」

 そう言いながら家を見回し、少しの沈黙の後、「良い感じ」なんて大きくうなずきながら、貼り付けたような笑顔を私に向ける。

「いつも助かってるよ」

 私に向けられるその目を絶対に見まいと、目をそらして続けた。

「私なんか、いない方がいいんだよ」
「助かってるって言ってるのに、なんでそうなるの?」
「私がいるからこの家はぐちゃぐちゃになるんだよ。毎日イライラして、怒ってばっかだから。私だって気づいてるよ。みんなが私の顔色うかがって生活してるのも、このギスギスした空気を作ってるのは私だってこともわかってる」

「そんなことないよなあ?」とへらっとした言い方で子供たちに同意を求めるも、当の二人は我関せずで、テーブルにこぼれたご飯粒をつぶして遊んでいる。

「ほらね?」
「何が「ほらね?」なの?」
「二人とものびのび育ってるじゃん?」

 ご飯粒をひたすらつぶしてはまとめる作業をする颯太の頭を、この父親は愛おしそうに撫でた。
 その仕草にも、その表情にも、胸が傷つけられる。

 私にはできない。
 そんな風に。
 何が楽しいのか、意味も不明な子どもの行動に笑顔で理解を示す理想的な親に、私はなれない。
 だから、目の前のまぶしすぎる親子関係が、その光景が、この人が、私を余計惨めな気持ちにさせる。

「どうせ自分の方が上手くできると思ってるんでしょ? 私のやり方を見て、全然だめだなってあざ笑ってるんでしょ?」
「そんなこと……」
「すごいよね。まるで育児書や子育てサイトに載ってるような、お手本みたいな父親で。周りからも、優しそうとか、良いパパだねなんてちやほやされて。たまにしか子供と関わらないくせに。私なんて毎日必死でやってても上手くいかないのに、ちょっとした声掛けで信用も信頼も全部持ってっちゃうもんね。もういっそのこと一人で育てたらいいじゃん。父親についていけば、経済的にも困らないしさ。何にもない私が育てるより、ずっと楽しく満足に育つよね?」

 何か言おうと開きかけた口から、小さくため息が吐き出されたのを私は見逃さなかった。
 怒っているのか、呆れているのか、疲れ切っているようにも見えるその顔には、困り果てたシワが寄っていた。
 その表情が、また私の心に傷をつけていく。

「結婚しなきゃよかったね?」
「え?」
「私なんかと結婚したのが間違いだったんだよ」
「さや……」
「もう早く出てって」

 相手に何かを言わせる隙も与えず、そう言い放ってダイニングを出た。