もう一度、君に恋する方法


 大会前日はいつもより少し早めに部活が終わった。
 私たちの学校は午前の部なので、前日から楽器をトラックに搬入しておく必要がある。そのため、練習後、積み込み作業が行われるのだ。
 積み込みが終わると、いつも通り、同じ方角の人同士が一緒になって帰っていく。私もその群れの一番後ろを歩いていた。胸をトクトクと鳴らしながら。すると、いつものように水野先輩が自転車ですーっとやってきて、私のそばで自転車を降りた。

「お疲れー」
「お疲れさまです」

 私たちが視線をかわしながら挨拶すると、前の列からも「おお、浩介、お疲れ」と先輩に声をかけてきた。その声に、先輩が「おう」と短く返事する。

「はーあ、明日の大会が終わったら引退かあ」

 前の方で誰かが言った。その声をきっかけに、「寂しくなるなあ」、「受験生になりたくねえ」と、次々に声が上がった。

__そうだ。明日が終われば、先輩たちは引退だ。
 
 そしたらもう、先輩たちは部活に来なくなる。
 先輩たちのいない部活動なんて、ちょっと想像できなかった。
 一緒に活動したのはほんの数か月だけど、一抹の寂しさがよぎった。
 
 私は水野先輩をちらりと見た。

__先輩とこうして帰れるのも、あと少しか。

 そうして一人、感傷に浸りきった時だった。

「予選突破すればいいんだろ?」

 隣で大きく放たれたその声に、私の体は一瞬びくりと跳ねあがった。
 私は思わず目を見開いて隣の先輩を見上げた。それと同じくして、前方からの視線がこちらに集まった。

「予選突破すれば、部活続けられるじゃん。みんなで行こうぜ、全国」

 まっすぐと前に向けられた先輩の目はきらきらと輝いていて、自信に満ち溢れていた。その姿が、西の空に沈みかけるまだ元気な太陽の光と相まってまぶしかった。

「おお、さすが部長。いいこと言うじゃん」
「明日頑張ろうぜ」

 気合の声が、夕空に弾けるように広がっていく。
 空に突き出された手のひらに、次々と手のひらが重ねられていった。パチン、パチンと軽い音を立てながら。
 みんなが声を上げ、ハイタッチしている姿を見て、私の気持ちまで高揚してきた。私が舞台に立つわけではないのに。うらやましさと、ほんの少しの寂しさがちらりと顔を出す。

「柏木さんも」

「……え?」

 ぽかんとする私の目の前に、すっと先輩の手のひらが差し出された。
 長く伸びた指先が、五本とも天を指している。私はその手に戸惑った。

「でも私、大会には……」
「別にいいじゃん、そんなの」
「え?」
「大会なんて出られなくてもいいんだよ。要はさ、楽しんだもん勝ちじゃん?」

 ふっと見上げた先輩の表情は、どこかいたずらっ子のようだった。

「楽しんだもん勝ち?」
「大会に出られたって、全国に行けたって、優勝したって、楽しくなかったら意味ないじゃん。要は、その空気を、その時間を、目いっぱい楽しんだ人が、一番の勝ち組なんじゃない?」

 先輩は、目の前で繰り広げられるハイタッチ合戦の様子をほほえましく見つめた。

「ほら、みんな楽しそうじゃん。明日大会に出る人も、出ない人も」

 私もその視線の先を追った。
 確かに、大会に出ないメンバーは、よく見れば私以外にもたくさんいた。その誰もが、無意味に楽しそうだった。
 気合の声は、奇声に変わりつつあった。

「だから、ほら」

 先輩の手のひらが再びぐっと私の目の前に差し出される。私はその手のひらにそっと、自分の手を重ねた。

 重なった指先から、じわじわと先輩の体温が伝わってきた。その温かさが、血管を伝ってとくとくと体中に広がっていく。私の体温も皮膚も、まるで先輩の手の中に吸い込まれて一つになっていくような、不思議な感覚だった。
 いつの間にか、自分の手の温度なのか、先輩の手の体温なのか、さらにはどちらの皮膚の感触なのか、その境界線すらあやふやになってくる。

「俺が、柏木さんの気持ちも一緒に舞台の上に立つから」
「……え?」
「もう、一人で戦う必要ないよ」

 私はぽかんとしたまま、その言葉の意味を考えた。だけど先輩の柔らかな瞳の中に、その答えはすぐ見つかった。
 
 先輩はたぶん、覚えていたんだ。私の話を。

__「ソロコンには出ましたけど、コンクールの舞台に立ったことは一度もありません」

 中学の時の、あんな些細な話を。
 
 部活が楽しくて、練習が面白くて、みんなと帰るこの時間が待ち遠しくて、先輩の隣を歩く心地よさに酔いしれて。
 私ですら、そんな話、そんな思い出、すっかり忘れていたのに。

 私は何度か、こくこくとうなずいてから声を放った。

「……はい」

 喉元がぎゅっと締め付けられて、上手く返事ができなかった。だけど先輩の口元が、ふわりと柔らかく動いたのがわかった。