もう一度、君に恋する方法


 こうして私は吹奏楽部に入部をした。

 入部をしてすぐに感じた。この吹奏楽部は、みんな仲がいい。
 先輩、後輩なんて関係ない。楽器歴も関係ない。時にはパートの垣根を越えていく。
 ここの吹奏楽部の実力はというと、ぱっと聞いた感じ、大会上位レベルではない。だけど、一人一人を大切にしていたし、お互いの力を高めようとする姿勢も好感が持てた。
 みんな楽しそうで、誰からも共通して感じられるのは、音楽が好きという気持ち。そして、この部活のメンバーが好きだという気持ちだった。それらがこの吹奏楽部の居心地の良さを作りだしていた。そこには、私が中学で見てきた異様な光景も、不穏な空気も、どこにも見当たらなかった。
 そしてその穏やかな渦の中心には、いつも水野先輩がいた。
 
 この部の活動全体の舵取りをしているのも、この心地よい空間を作り出しているのも、すべて部長である水野先輩だということは、誰に聞くでもなくわかった。
 先輩が吹奏楽部の部長だと知ったのは、入部届けを出して初めてのオリエンテーションの時だった。入学してすぐに行われた部活紹介で部長の話はあったそうだけど、どの部活にも入る気のなかった私に、先輩の声など届いていなかった。
 
 水野先輩は、見た目通りの優しい先輩だった。まったく部長らしくない、のほほんとした穏やかな風貌には、威厳などまったく感じられなかった。人が良さそうな感じからして、どうせ部長職を押し付けられたのだろうと私は思った。だけど、入部して納得した。この人が、部長に選ばれた理由が。
 頼りない見かけとは裏腹に、先輩はみんなの前に立つと人が変わったように堂々としていて、この大所帯の吹奏楽部を見事にまとめ上げていた。しょっちゅういろんなパートに顔を出しては、的確なアドバイスをしていく。様々な練習方法を編み出し、前で指揮を執り、練習計画を練っていく。そのすべてを、先輩がまとめ上げていた。そしてその方針に、みんなが楽しそうに参加していく。文句を言う人なんていない。先輩の発言に、みんなから「いいね!」の声が上がる。
 話し上手で聞き上手。おまけにほめ上手。底なしのポジティブ思考が、みんなの心を救う。
 そんな癒しの存在が、水野部長だった。

 そして驚くべきは、先輩がクラリネットを始めたのは高校に入ってからだということだ。
 あのテクニックとあのアレンジ力、そして音の質を聞く限り、楽器歴二年なんて、到底信じられなかった。
 それに加え、音楽の知識も豊富だった。そこもまた、みんなが先輩に一目置いている理由だった。

「好きこそものの上手なれって言うでしょ? 俺は楽しくやってるだけだよ。音楽もクラも好きだし」

 先輩は、こちらが見惚れてしまうほどのきらめくまっすぐな眼差しでそう言った。
 
 だけど一方で、音楽に関して以外はてんでダメだった。
 音楽センスは抜群だけど、不器用さも、この部内で右に出る者はいなかった。
 だけどどんな失敗も笑ってやり過ごす。「えへへ」と笑うそんな姿が、なぜか、みんなに安心感を与えていた。

 先輩のことが、みんな好きだった。先輩に注がれる視線が、そのすべてを物語っていた。
 後輩からの尊敬や憧れのまなざし、同級生や先生からの厚い信頼。そして、時々垣間見られる、特別な恋心。

 先輩のそばは、居心地がいい。誰もがそれを知っているから、先輩の近くにはいつも人が集まっている。いつも笑ってる。いつも楽しそう。その中心にいる先輩も、先輩を取り囲む人たちも。
 
 私も、先輩が好きだった。先輩として尊敬してるし、話してると楽しいし、先輩のクラリネットの音も好きだし。
 何より、先輩は優しい。いつもいつも優しい。接し方も、醸し出す空気も。全部……。
 だけどその優しさは、私だけに注がれるものではないことぐらい知ってる。

 先輩は、みんなに優しい。
 他の後輩にも、同級生の女子にも。きっと、私の知らない女の子にも。私だけが「特別」ではない。
 誰にでも優しい所が、先輩の良い所でもある。それを嬉しく思う反面、そう思うたびに、そう自分に言い聞かせるたびに、胸のあたりがきゅっと苦しくなる。


「お疲れー」

 その声は、胸のモヤりをいつもさらってくれる。
 すいーっと流れるように自転車が私の隣に止まった。
 部員の仲が良好ゆえ、同じ方角の人同士で集まって下校するなんてのも当たり前だった。
 家路をゆっくりと歩くメンバーの中に、水野先輩の姿もあった。
 先輩も同じ方角なんだと初めて知ったとき、胸が勝手に高鳴ったのを覚えている。今もその余韻を引きずっているのか、こうして先輩が隣を歩き始めると、口もとがもぞもぞと緩みだす。

「お疲れ様です。みんなが出るまで帰れないなんて、部長も大変ですね」

「まあね」と、どこか誇らしげに答える先輩は、自転車を降りるといつも通り、さりげなく車道側にまわる。たったそれだけのことなのに、その気遣いに毎度胸が敏感に震える。
 その瞬間から、前を歩く人たちが急に遠のいていく錯覚が起こる。まるで、私たちだけ切り離された空間にいるみたいに。

「調子どう? もうパートには慣れた?」
「もう七月ですよ。いい加減慣れますよ」
「そっか。よかった。打楽器パートは演奏の要だからね。しっかり頼むよ」

 先輩はわざと声色を変えて、偉そうに言った。

 吹奏楽部に入部した私は、クラリネットパートではなく、打楽器パートを選んだ。心機一転、もう一度音楽と向き合いたいと思ったからだ。もう一度、私の色で塗り替えたい。好きな色で飾りたい。
 もちろんクラリネットをもう一度やることも考えたけど、なんとなく、新しいことに挑戦してみたくなった。そう思えたのは、先輩とのセッションが、思いのほか楽しかったからだ。

 実際、入部してしばらくは、今まで触れたことのないような楽器にも触れていくことで、緊張とわくわくと、ドキドキが入り混じって刺激に満ちた毎日だった。音楽の時間に、じゃんけんで勝った人だけが触れるウッドブロックやギロ、クラベスといった憧れの楽器が目の前に並べられると、興奮が止まらなかった。
 だけどそんなときめきとは裏腹に、日々の練習はかなり地味だった。毎日スティックを握りしめて、ただひたすらメトロノームに合わせて左右の手を振り下ろすというのが、打楽器パートの基本的な練習だ。どんな打楽器を扱うにも、テンポ感は外せない。
 そんなことは私も心得ていたし、この地味な基礎練習も、マーチングバンド時代から見てきた。だけどやってみると、これがかなり大変だった。実際の地味さは過酷なほど地味だった。メトロノームに合わせて叩くだけの作業が、こんなに難しいとは思わなかった。自分のテンポ感のなさを痛感し、いかにいつも打楽器パートのテンポやリズムに依存してきたか身をもって思い知らされた。自分たちの演奏が、こんな地味で地道な日々の鍛錬の中で支えられていたことを初めて知った。
 
 こうして私は毎日、体の中にテンポを刻み込んでいった。
 とん、とん、とん、とん……と。

「まあ、いろいろ苦労してますけど」
「柏木さんなら大丈夫だよ」

 そう言いながら、先輩は私の肩をポンポンと軽くたたいた。
 薄いカッターシャツから伝わるその優しい衝撃に、鼓動が勝手に早くなる。

トク、トク、トク、トク……トクトク、トクトク、トクトク、トクトク……

 私の体に正確なテンポで形成されつつあるメトロノームが、狂い始める。乱れ始める。
 先輩の声を間近に聞きながら、先輩の笑い声を胸に響かせながら、先輩の匂いを含んだ空気を吸い込みながら、そのテンポを安定して刻むことは難しかった。

「……だよなあ? 浩介」
「え? なに?」

 前からの呼びかけに答えるように、先輩が前のめりになる。
 途中で声をかけられることなんて、こうしてみんなで一緒に帰っていればよくあることだ。だけどそのたびに、私たちを包んでいた空気がパチンと割れるような音を立てる。上がった心拍数は急にしぼんでいって、そこには寂しさに似た感情が残る。そして、信じられないくらいの嫉妬心も。

 ただ声をかけられただけなのに。ただ話しているだけなのに。ただ笑っているだけなのに。
 先輩を、獲られてしまったような、そんな子どもじみた嫉妬心だ。

「……だよねえ? 柏木さん」
「え? あ、すみません。ぼうっとしてました」
「大丈夫? 今日も暑いからなあ。あ、そうだ、これ飲む?」

 そう言いながら、先輩は自転車のかごに入れた鞄の中をがさごそと漁った。
「さっき買ったばかりだから」と手渡されたのは、ブドウの炭酸ジュースだった。それは確かにまだ冷たくて、未開封だった。

「え、でも……」
「熱中症、怖いから」

 そう言ってから、先輩はにっと笑って、手にしていたペットボトルのふたを勢いよく開けた。
 カチカチっと音が鳴って蓋が開いた瞬間、パシュッと爽やかな音が夕方の空に響いた。それと同時に、開いたばかりのペットボトルの口元から白い気流が涼し気に流れる。

「はい」と差し出されたペットボトルを、私はおずおずと受け取った。一瞬躊躇はしたものの、「では、いただきます」と口をつけようとした。だけど、いざ口に入れようとしところで、ペットボトルを握る指先が小刻みに震えた。それと呼応するように、ペットボトルに近づけた口元も震える。
 これは、熱中症の症状だろうか。だけどすぐに違うと気づいた。何か、視線を感じる。
 気になる視線ににパッと目をやると、先輩がじっとこちらを見ていた。

「……あの、じっと見られると、飲みにくいんですけど」
「ああ、ごめんごめん」

なんて言いながら、先輩は慌てて前を見た。その表情が、どこか浮かれているように見えたのは気のせいだろうか。その姿を視線の端に入れながら、私はようやくペットボトルに口をつけた。
 液体が唇に触れたそばからピリピリと痺れた。炭酸が勢いよく弾けながら喉を通って体の中に流れていく。夏にぴったりの心地よい刺激に、いつまでもごくごくと飲めてしまいそうだった。
 口を離してからも、いつまでもしゅわしゅわとした感覚が残る。ふーっと息を吐くと、そんな私の姿を見ていた先輩と目が合った。
 炭酸の弾ける残響の中で、私の鼓動が、また小さく走りだす。

 トク、トク、トク、トク……と。

 先輩の隣にいると、私の鼓動のテンポがどうも安定しない。


 帰る途中で、一人、また一人といなくなる。そして、私と先輩だけになる。その瞬間、私の心はふっと明るくなる。同時に歩調がゆっくりになる。ゆっくりにしてしまう。
 家までの残りの距離を、先輩は私のその歩調に合わせて歩いてくれた。家に近づくほどに、ゆっくりゆっくり。そして家の前まで来ると、先ほどまで上を向いていた気持ちが、一気にがくんと落ちる。

「すみません、今日も家まで送ってもらって」
「いいって。いつも言ってるじゃん。俺もこっち方面だし、通り道だし」

 そう言って先輩は、入部当初から私を家まで送ってくれていた。
 どこまで本当なのかわからないけど、だからって先輩の家を詳しく聞くことはしなかった。聞いてしまったら、この時間が終わってしまうような気がしたから。

「あ、そうだ。これ、ありがとうございました」

 そう言いながら、先ほど先輩にもらったペットボトルを掲げた。そして「あの、お金……」と言って財布を出そうとした時、先輩がひょいとペットボトルを取り上げた。そして私が「あっ……」と言っている間に、まだ半分以上残っている中身を一気に飲み干した。
 先輩の喉元がぐいぐい動くのを、私は呆然と見守った。

「あーっ、うまーいっ。ちょうどのど渇いてたんだよね。やっぱ夏は炭酸だよね」

 先輩の笑顔が、爽やかに弾ける。その笑顔に、心臓が大きく跳ねる。

「お金はいいよ。ほぼ俺が飲んだようなもんだし」

 先輩はそう言いながら口元を軽くぬぐった。
 その唇に触れる指先を見つめて、私の心臓がどくどくと騒ぎだす。そして無意識に、私も自分の唇に手を持ってきて、刹那、口元を手で覆った。
 
 そんな私を気に留めることもなく、先輩はペットボトルのふたを閉めて、それをすがすがしく自転車のかごに放った。

「じゃあ、お疲れ。また明日」
「あ、はい……お、お疲れさまでした」

 視線をどこに合わせていいのかわからないままそう早口で言って、私はうつむいたまま玄関に駆けこんだ。そして家に入って扉を閉めた途端、足から砕け落ちるようにへなへなと座り込んだ。

__「柏木さんだったら、俺は気にならないけど」

 あの時の先輩の言葉が、脳裏をかすめた。その瞬間、火照った体にさらに熱が走った。
 目をぐっとつぶって口元に手を当てたまま、声にならない声を放った。あふれ出てくる感情が抑えられなくて、足をばたつかせたり、肩をゆすったり、身悶えが止まらない。
 何とか落ち着こうと大きく息を吸って、鼻からどっと息を吐き出した。するとようやく、体に入った力がプシューッという音と共に抜けていく。

__あんなの、ズルい。

 その時、ポケットに入れていたスマホがブブッと音を立てた。画面を見ると、先輩からだった。そこには、

(夜も暑いし、からだ、気を付けて)

 そう書かれていた。
 その文面を見た私は、不意に立ち上がって玄関の扉をそっと開けた。
 
 そこには、自転車にまたがったままスマホに目を落とす先輩がいた。
 私に気づいた先輩は、いつもの穏やかな笑顔と共に、スマホを持った手を左右に振った。

__その笑顔が、私だけのものになったらいいのに。

 その優しさを、独り占めできたらいいのに。
 その瞳の中に映るのが、私だけだったらいいのに。
 私が先輩の、「特別」になったらいいのに。

 私の胸の中に、いつからかコトンと置かれた何でもない小瓶が、ゆらゆらと色を変え始めていた。