今日初めて会った人に、こんな重い話をべらべらするなんてまずかったなと気づいたのは、水野先輩がものすごく悲壮な顔をしていたからだ。自分でこんな空気を作っておきながら、居心地の悪さに逃げ出したくなった。
__私、ほんとに今日この人と帰るのかな。どこまでついてくるつもりだろう。帰る方向違うといいな。
そんなことを考えながら、私の隣をとぼとぼと歩く先輩に気まずい視線を向けた。
私と先輩の間を、桜の花びらがひらひらひらと流れていく。
先輩の横顔より、そちらの方に目を奪われた。もうすぐ地面に落ちるというところまで見守っていると、温かな風がふわりと吹いた。その風に煽られて、花びらは地面に落ちることなく、もう一度舞い上がった。それと同時に、私の顔も上を向く。それと同時くらいに、青い空の中から低い声がずんと降ってきた。
「それは違うな」
「……はい?」
「柏木さんが嫌いなのは音楽じゃなくて、中学の思い出でしょ?」
その言葉に、一瞬はっとなる自分がいた。
先輩の冷めたような目が、私をとらえていた。その目が怖いわけではなかった。むしろその目にすがりつくように、じっと見入ってしまった。
「そんな思い出、塗り替えたらいいじゃん、高校で」
「え?」
「俺が塗り替えてあげるよ」
「何言って……」
そう言いかけたところで、私の手がきゅっと温かい力で包まれた。その力強さと勢いに、心臓が跳ね上がる。
「こっち来て」
そう言って先輩は武道場に引き返していく。上履きを脱いで、その勢いのまま武道場の奥に連れこまれた。その光景に、通路で練習していた部員たちが「おい、浩介」「アオハルかよ」なんて冷やかしてくる。だけど先輩は、そんな冷やかしに耳も貸さずに歩いた。
連れていかれた場所は、がらんとした倉庫のような場所で、アルミ製の棚が壁一面に並べられていた。そこには一目見て何が入っているのかわかってしまうような、独特な形の楽器ケースたちが並んでいた。その他にも、大量のCDや楽譜、打楽器やその備品が並べられている。その棚に囲まれるようにして、申し訳程度のパイプ椅子とテーブルが置かれていた。どうやらこの部屋は、楽器庫として使われているみたいだ。
先輩はそのテーブルの上に、カスタネット、トライアングル、タンブリン、ウッドブロックなど、見慣れたものから、見たことのないものまで、打楽器の棚から持ってきたものをずらりと並べた。
「まあとりあえずこんなもんかな」と言いながら、先輩は違う棚に向かった。そこで先手にしてきたものに、私は思わずどきりとなった。
「そ、それは……」
その中身が何なのか、私はケースを見ただけでわかった。それと同時に、体がぞくりとなった。もう見たくもないし、その音を聞きたくもないと思っていた楽器だ。
ケースの中で三分割になって収納されている楽器を、先輩は軽快に組み立てていった。組みあがると、マウスピースと、そこに挟むリードを調整する。その表情はとても活き活きとしていて、すでに楽しそうだった。
準備が終わると、先輩は大きく息を吸って、楽器に息を吹き込んだ。その瞬間、私のそばを、優しい風が吹き抜けていったように感じた。
ベルから流れる柔らかで甘くてもったりとした音は、耳に入って鼓膜をくすぐると、こめかみ辺りをスーッと貫いていく。パタパタとキーの上を走る指先に合わせて、まるでシャボン玉のように音がポコポコと生まれていく。それが空中で弾けると、まるでシャワーのようにサーっと私の頭上をしっとりさせていく。
目の前のクラリネット一本から出されている音なのに、まるでいくつもの音に囲まれているようだった。
呆然と聞いていると、聞いたことのある曲が聞こえてきた。二拍子の陽気な曲だ。
「この曲知ってる?」
マウスピースをくわえたまま、先輩が聞いた。
「『茶色のこびん』、ですよね」
初めて聞いたのは、小学校の時だっただろうか。音楽の時間に、鍵盤ハーモニカで吹いたたような気がする。
「そう、これは何の変哲もない茶色のこびん。この茶色のこびんが、今から変身します」
そう言うと、先輩はもう一度同じ曲を吹いた。だけど今度はもう少し小気味良く、スタッカートがついて軽快に。
楽しそうに吹いていたはずの先輩だけど、急に吹くのをやめた。そして机の上を目で指しながら私に言った。
「ほら、柏木さんも、楽器持って」
「え?」
「一緒にやろうよ」
「一緒にって……」
「楽器ならそこにいろいろあるだろ? 俺の音に合わせて、リズム打ってみてよ」
そしてまた先輩の演奏が始まる。私は戸惑いながらも、手前のタンバリンを手に取った。そして、ウン、タン、ウン、タン……なんて、小学生でもできる単調なリズムをつけていく。
__一体何がしたいんだろう。
そう不審に思いながら。
曲は次のメロディーに移った。歌詞で言うと「リンロンロン」という、一体何を表現したのかわからない、だけど歌っていて口元が喜ぶような歌詞の部分だ。その部分に入ると、にわかに先輩のリズムが揺れ始める。そのメロディーに、私の「ウンタン」リズムは何ともおかしかった。なので、自ずとこちらもリズムの打ち方を変えるしかなかった。
打ち方を変えると、先輩はさらに曲調を変えてくる。それにくらいつくように、私も曲調に合うタンバリンの打ち方を模索する。マーチングバンドと吹奏楽部で鍛えられた身だ。多少の打楽器の心得ぐらいはある。先輩のメロディーに合わせて、リズムの打ち方を変え、場合によっては楽器を持ち替えた。
先輩は自由自在にリズムを変え、調を変え、音程を変え、拍子を変え、装飾音符をちりばめ、スイングで揺らす。バラード風、ポルカ風、ワルツ風……いろんな『茶色のこびん』が休むことなく繰り出される。
__この人、なに?
目を見張るようなアレンジとテクニックに、私も夢中で食らいついていった。そんな必死な私に、先輩が吹きながら満足げに笑う。
そしてファンファーレ風の茶色のこびんが奏でられると、私たちの演奏は華やかに締めくくられようとしていた。先輩がクレッシェンドで盛り上がるのに合わせて、私もトライアングルを力強くチリチリとロールさせる。その響きが楽器庫の隅々に広がっていく。そして十分な盛り上がりを見せたのち、目で合図しあってようやくFine.を迎えた。
クラリネットのベルがくるりと回されると、狭い楽器庫の中に、たった二つの楽器の残響がサーッと残った。
なんだかどっと疲れた。
一体「茶色のこびん」を何度エンドレスしただろう。だけど疲れとは裏腹に、心の中はすっきりしていた。だって私の中にはずっと、絶えず同じ気持ちがあったから。
__楽しい。
こんなに夢中に演奏したのは、いつぶりだろう。
じんじんとする手のひらをじっと見て、その余韻に浸った。その静かな時間の中に、先輩の優しげな声がすっと入り込む。
「何の変哲もない茶色のこびんは、こうしていろんな色に塗り替えられる。青色にしてもいい、赤色にしてもいい。宝石をちりばめてもいい。あえて傷をつけてもいい。中身を変えたっていい。甘いジュース、しゅわしゅわの炭酸。にがーい青汁」
先輩はいろんなアレンジを混ぜて、もう一度茶色のこびんを、一人で演奏した。
「一人で作るのもいい。みんなで作ってもいい。どんな風にも塗り替えられる。虹色できれいに塗ったはずのこびんが、時にその中身を毒に変えられてしまうことだってある。だけど、その液体をもう一度出して、中身を洗って、自分の好きな液体を入れなおしたらいい。せっかくきれいに描けた虹の中に違う色が入ってしまったら、上から塗り直したらいい」
クラリネットにスワブを通して楽器の中を掃除しながら、先輩は話した。
「だけど、どんなに塗り替えても、どんなに塗り直しても、どんなに中身を変えても、ベースは絶対変わらない。つまり……」
すっと見据えられたその穏やかな目に、私の心臓がぎゅっとなる。
「君は、音楽が好きなんだよ。それだけは、変わらない」
先輩がもう一度マウスピースを付け直す。マウスピースの陰から、先輩まっすぐな目が私をとらえた。
「柏木さんのこびんは、何色になったかな?」
私はぼうっとしながらその問いを聞いた。
__私のこびんは……
「……はい」
私が答えを出す前に、先輩が今しがた中を掃除したばかりのクラリネットを私の前に差し出した。
「え?」
「柏木さんも、吹いてみたら?」
「え? 無理ですよ。一年半もブランクがあるんですよ」
「構えたら体が思い出すって。ほらやってみ」
手元に楽器が押し付けられる。手に取ると、懐かしい感覚に指先が震えだす。
「俺も、柏木さんのクラリネットの音、聞いてみたいな」
甘えるような声と目で私に促すその姿に、またどきりと胸が爆ぜる。
改めて楽器を構え直して息を吸い込むと、自然と口元がマウスピースを包み込むような形に変形する。肺にではなく、お腹の下の方に空気がため込まれていく不自然な感覚。その流れのまま、目の前のマウスピースにそっと口を添えようとしたした時だった。
「俺、間接キスとか、気にしないから」
マウスピースをくわえるすんでのところで、体がびくりと止まった。
目の前のマウスピースに視線を注いだまま、その言葉の意味を考えると、徐々に顔に熱が集まってきた。そして腕を思い切り伸ばして楽器を自分からできるかぎり遠ざけた。
「柏木さん? 何やってんの?」
「バカなんですか? 先輩は」
「え?」
「間接キスとか、何言ってるんですか」
「え? 一応、気を遣ったつもりで……」
「お返しします」
「え? 吹かないの?」
「吹くわけないじゃないですか」
楽器を返した私は、すかさず先輩からも距離をとる。
「先輩って、実は軽いんですか?」
「え?」
「楽器の回し吹きとか、女子とも平気でするんですか? 女子同士だって、普通やりませんよ」
「べつに俺だって楽器の回し吹きなんてしないよ。でも今はこれしかないし、それに……柏木さんだったら、俺は、気にならないけど」
__……え?
「あ、でも、柏木さんは気にするか」
「ははっ、ごめんごめん」と軽く笑いながら、先輩は私の手からクラリネットをすっと抜き取った。
「じゃあまた今度聞かせてよ、柏木さんの音」
先輩は機嫌よさそうにクラリネットを構えた。
がらんとして殺伐とした楽器庫の中が、再び先輩のゆらゆらとしたクラリネットの音で満たされていく。
冷たい空気が、一気に温かさを増す。冷たい青が、温かなオレンジ色に変わっていくように。
それは、確かな感触だった。
私のこびんの色が、ゆらゆらと色を変えていく。
その感覚が心地良い、春の日の放課後だった。

