「美味しい…ありがとう…」

 かすかに開いた目の前はぼんやりとし、まだぐるぐると回っている。

 「燈花(とうか)様、大丈夫ですか?」

 小彩(こさ)の心配そうな声がすぐ横で聞こえる。

 「よっぽど寝てしまったのね…頭が重いわ…」

  両手を顔の上に乗せた。

 「お疲れなのでしょう、無理しないで下さい」

 小彩(こさ)はそう言うともう一度水を飲ませてくれた。

 「私…いつの間にか橘宮(たちばなのみや)に戻っていたのね…昨晩は…中宮様とお会いしてたのよ…」

 大変…中宮を一人深田池に残したままだ…あれ?どうしたんだっけ?まるで思い出せない…

 「小彩(こさ)…私、昨晩中宮様にお会いして…そのまま一人帰ってきてしまったみたい…後で一緒に小墾田宮(おはりだのみや)に挨拶に参りましょう…」

 小彩(こさ)は返事をしない。黙ったままだ…空気がしんとしている。

 「小彩(こさ)?私、中宮様に会いにいかないと…」


 「と、燈花(とうか)様?」

 小彩(こさ)がようやく口を開いた。

 「もう少ししたら起きるから支度をしてくれる?中宮様の事が気がかりだわ…妙な事をおっしゃっていたから…」

 「…あのう、燈花(とうか)様…申し上げにくいのですが…何か誤解をされているのでは?」

 小彩(こさ)が言葉を選ぶように遠回しに言った。しかもいつになく神妙な声だ。

 「え…?何のこと?」

 会話が噛み合わない。でも見上げた天井はさっきよりも鮮明に見える。間違いない…橘宮(たちばなのみや)の自分の部屋だ。

 「燈花(とうか)様…ご、ご存知ないのですか?」

 小彩(こさ)が何かを確かめるように少し大きめの声で言った。

 「何を…?」

 「…中宮様はもう、お亡くなりになっております…」

 小彩(こさ)が小さく震える声で答えた。

 「えっ…」

 一瞬の間を置いた後、ありったけの力を使い起き上がった。眩暈(めまい)はもう治まっていた。目の前に見知らぬ美しい女性が立ち心配そうにこちらを見つめている。

 「…あなたは…誰?」

 思わず声に出して聞いた。

 「燈花(とうか)様、私でございます。小彩(こさ)でございます。お忘れですか?」

 忘れるも何も飛鳥に来て以来毎日会っている。もちろん昨日も会っている。目の前に立つ女性は見知らぬ大人の女性だが間違いなく小彩(こさ)の声だ。困った表情も少女の時の小彩(こさ)の面影がある…いったいどうなっているのだろう…状況が全くわからない…。

 「本当にこ、小彩(こさ)なの…?」

 もう一度聞いた。

 「さようでございます」

 小彩(こさ)は私の手を握りしめると顔をすり寄せた。近くで見るとくりくりとした瞳も少し低い鼻も丸いおでこも全て小彩(こさ)だ。

 一体どういうことなのだろう?まだ夢を見ているのだろうか?自分を落ち着かせながらゆっくりと深呼吸をした。

 「もう一度、言ってくれる?中宮様は…」

 「はい…中宮様は十三年ほど前にお亡くなりになっています」

 深く息を吸い込み両手を胸に置いた。心臓が止まりそうだ。

 「十三年前?そ、…そんなはずないわ、私、昨晩お会いしたのよ深田池の畔で」

 確かに昨夜、間違いなく中宮に会っている。虚言でもなく寝ぼけているわけでもない。私はいたって正常だ。

 「燈花(とうか)様…いったい何を…」

 小彩(こさ)も訳がわからないという風に混乱した様子だ。私は小彩(こさ)の言葉を遮るように話を続けた。二度目の意味の分からないタイムスリップなど到底受け入れられない。半ば怒りにも似た感情が沸き上がっていた。

 「漢人(あやひと)を連れてきて、昨日あなたへの言付けを頼んだの」

 私はぱっと立ち上がると、小彩(こさ)が止めるのを無視し部屋の外に飛び出し大声で叫んだ。

 「漢人(あやひと)~!漢人(あやひと)~!」

 呼び声は屋敷中に響き渡りすぐに馬小屋の後ろの方から一人の男がひょっこりと顔を出しこちらに向かって走ってきた。

 「はぁはぁ、燈花(とうか)様。お気づきになられたのですね、良かった」

 男の肌は薄黒くあごにはもじゃもじゃの無精ひげが生えている。背はさほど高くはないが中肉中背の体格の良い男だ。この男もまた少年の頃の漢人(あやひと)の面影がある…

 「あなたは…」

 「馬番の漢人(あやひと)でございます。大変長い間、ご無沙汰しておりました。改めて燈花(とうか)様にご挨拶を申しあげます」

 漢人(あやひと)は嬉しそうに目を細め深々と頭を下げた。