ようやく橘宮(たちばなのみや)の五重の塔の先端が林の奥に見えた時、見覚えのある馬が凄い速さで前方から走って来た。馬はパカッパカッパカッ、ヒヒーン、と鳴き数メートル先でぴたりと止まった。ひらりと若い男が馬から降りるとこちらに向かい駆けてくる。

     山代王だ。

 「燈花(とうか)!無事であったか⁉︎」

 山代王は私が答える前に私の腕をぐいとつかむと力強く引き寄せた。温かな腕の中でドキドキと心臓が鳴り一気に鼓動が早くなった。

 「朝早くに橘宮(たちばなのみや)に行ったがそなたが桃原墓からまだ戻らぬと聞き、居ても立っても居られず飛んできたのだ。会いたかった」

 少し力の入った腕から山代王の愛情が伝わってくる。随分長い事会っていなかったような懐かしさを覚えた。

 「いくら人が足らぬとはいえ、この寒さの中わざわざそなたらが行くことはなかろう」

 山代王は怒り半分呆れ半分な様子で言った。よほど心配をかけてしまったらしい。彼の眉はまだ下がったままだ。

 「ご心配をおかけして、すみません」

 「謝らずとも良い。そなたは何も悪くないのだから。それよりも良い知らせがあるのだ。そなたに伝えたくて朝一番で参った。兄上や朝廷の大臣達から婚姻の許しをもらった」

 山代王がとても興奮した様子で言った。

 「まことでございますか⁉︎」

 「そうなのだ昨晩、朝廷から使いが来てこの木簡を授かった。いち早くそなたに伝えたくて早朝から馬を飛ばしてやってきた」

 そう言うと手に握っていた木簡を広げ嬉しそうに微笑み顔を赤らめた。

 「私もとても嬉しいです。とりあえず橘宮(たちばなのみや)に戻り詳しい話を聞かせて下さい」

 今まで考えていた余計な不安は嘘のように吹き飛び、春が来たかのように温かな風を感じた。とても穏やかで平和だ。

 宮に戻ると私は都中を見渡せる東屋に山代王を案内した。小彩がすぐに温かい茶を用意してくれた。

 「燈花(とうか)よ、久しぶりにそなたの顔を見て、実に幸せな気分だ」

 「私も…同じお気持ちです」

 妙に恥ずかしくて山代王の顔を見ることが出来ずにうつむいた。久しぶりの高揚感で顔が熱っているのが自分でもわかる。

 「新年の宴の席でそなたとの婚約を発表する。婚儀は準備が整い次第、直ぐにでも挙げるつもりだ」

 あまりの短期間の間に話がとんとん拍子に進んだことに驚いていた。私の今までの不安はいったいなんだったのだろうかと拍子抜けした。

 「なぜ黙っている?気持ちが変わったか?」

 山代王は不安気に私を見た。

 「い、いえ、そうではありません。あまりにも順調に話が運んだ事に驚き、まるで夢を見ているような気分なのです…」

 「ハハッ…夢などではないぞ」

 そう言うと山代王は私のほっぺたを両手でつねった。

 「痛いっ!山代王様⁉︎」

 「ほれみたことか、夢ではないであろう?」

 頬はまだジンとして文句の一つでも言いたかったが、目の前で無邪気に笑う山代王が子供みたいで愛らしかった。そう思ったのも束の間、私の悪い癖なのだろうか、咄嗟にまたいつもの不安に襲われた。

 もし、これが長い夢だったらどうしよう…それとも、このあとすぐに未来に戻ってしまったらどうしよう…

 私の心を読んでいるかのように山代王が真っすぐな瞳で見つめて言った。

 「私は兄上とは違いまだ年若く未熟ではあるが、そなたの事だけは必ず守る。ゆえに安心してほしい」

 彼が誠実で愛情深い人間であることが、瞳から伝わる。なんて頼もしいのだろう…

 「山代王様…」

 山代王は優しく私の頭を撫でると、そっと顔を寄せて口づけをした。裏山からさらさらと音が鳴りどこからともなく山茶花の花びらが冷たい風に乗って飛んできた。

 「今日は急ぎそなたに伝えたかったのだ。まだ他にも済ませねばならぬ用事があるゆえ、また明日会いに来よう」

 「わかりました」

 私が頷くと、山代王はもう一度私の体をきつく抱きしめた。

 門を出た山代王は何度も馬を立ち止まらせ振り返るとこちらに向かい手を振った。これではまるで今生の別れのようだと思いクスッと笑ってしまった。

 ようやく山代王の後ろ姿が見えなくなった。手足の指が凍てつくように冷たい。朝よりも確実に気温が下がっている。はぁはぁと冷たくなった指に息を吹きかけながら小走りで部屋に戻った。