見上げた空は昼間のどんよりとした空とはうって変わり、満点の星空に変わっている。月も明るく山々を照らし辺り一面月の光だけの真っ青な世界だ。侍女に教えてもらった場所は距離こそあるものの単調な道のりだ。しばらく道沿いを歩いていると、草むらの奥の方に白い湯煙が上がっているのが見えた。近づくとポコポコと水の音も聞こえてきた。

       この辺りかしら…

 草むらが少し開けると大小の岩が無造作に並びその奥から湯気が上がっているのが見えた。きっとここで間違いない。暗い足元はぬかるみ、注意しないと足を取られそうだ。ポコっポコっという音が大きくなった。大小の岩でぐるりとかこまれた自然の天然露天風呂だ。恐る恐る湯に手を入れると少し熱めだが、この寒い夜と冷えた体には最適の温度だ。

  良かった。ここで間違いない。

 辺りはひっそりとしていて当然人の気配はない。急いで服を脱ぎチャポーンと熱い湯に片足を入れた。すっかり冷えたつまさきがジンジンとしている。そのまま一気に肩まで浸かった。

 なんて気持ちが良いのだろう、、すっかりお風呂の感覚を忘れていた。まさか、この時代に温泉に入れるとは想像もしていなかったのでなんともいえない幸福感だった。熱いお湯が身体中の疲労を癒してくれた。

 なんて美しい夜なのだろう。見上げた夜空にはいくせんもの星が輝いている。明日の夜こそ小彩(こさ)を連れてこよう。こんな美しい夜を独り占めなんて最高すぎる。しばらくうっとりと満天の星たちを眺めていた。

 十分体も温まったところで湯から出た。誰もいない事を確認して素早く着替え時だ、

 ザクッザクッと何人もの歩く音が聞こえてくる。
 
 すぐに側にある大きな石の影に隠れた。時間も時間であったし、一人だし心臓がドキドキと緊張で鳴っていた。

 「大王様、着きました!こちらの湯になります」

  えっ、大王…茅渟王(ちぬおう)様?!

 男の声が聞こえる。そぉっーと草陰に隠れ見ると松明を持った数人の男と、暗い中だったか大王の姿がうっすらと見えた。

 困った…出られない…しかも事もあろうことに小さな岩の上に山代王から頂いた指輪を置きっぱなしにしている…しかも先日中宮からもらった橘の刺繍が施された布に指輪をくるんでいるのだ。二つもの超貴重品を置きっぱなしにしている事に愕然とした。

 「大王様、こちらは足元がぬかるんでいて滑りますのでお気をつけ下さい」

 臣下の一人が言った時だ、

 「わっ!!」

 ズルッと滑る音と共にドシンと大きな音がして同時にボッチャーンと水の中に何かが落ちる大きな音がした。

 「た、大変だ!大王さまが湯に落ちたぞ直ぐに引き上げろ」

 臣下達はみなパニック状態だ。

 「大王様!大王様!』

 幾人もの臣下が湯に向かって声を声をかけているが返事もなく大王の姿も見えない。臣下達が一斉に湯に飛び込んだ。

 「どうしたのだ、早くお助けしろ!」

 湯のそばで年老いた側近らしき男が大声で叫んでいる。湯は濁っている上に夜ということもあり更に見えない。肉眼で探すのは難しい。

 「いらっしゃいました!!」

 若い男の臣下が大王を湯の中で見つけ、みなで掴んで引き上げた。草むらに横たわった大王に臣下達が一生懸命に呼びかけている。

 「大王様、大王様!しっかりしてください!」

 臣下が大きな声で何度も呼びかけるが反応がない。しばらくしても反応がないので、皆いよいよ慌て始めた。

 「なんてことだ、誰か急いで医官を呼んでまいれ」

 年老いた男が声を荒げて叫んだ。

 「なれど三輪(みわ)様、医官のいる(やしき)まで片道20分はかかります、このまま皆で大王さまを寝所までお運びし、医官を待機させておいた方が良いのではありませんか?」

 「ダメだ、ここまでの道も悪路であった。ましてやこの暗闇、灯りをともしても足元がよく見えぬ、余計に時間がかかってしまうではないか。いいから大至急医官を連れてまいれ!」


 「はっ、承知しました!」

 脈を診ていた別の男が言いました。

 「三輪(みわ)様、大王さまの脈が弱くなっていらっしゃるようです…」

 「誠か!なんてことなのだ…どうしたものか…」

 側近の男は慌てふためきおろおろとしている。


  「私が診ます」

 気づくと石影から飛び出しそう叫んでいた。

 はぁ…また余計なお節介を、と思いつつも、やはり見て見ぬふりは出来ない。しかもあきらかに非常事態だ。