林臣(りんしん)の屋敷では、、、 

 トントン、トントン

 「猪手(いて)、起きたか?」

 戸の向こうからは返事はなく、グワァツグワァーと大きなイビキだけが聞こえている。

 「…開けるぞ」

 林臣(りんしん)がガラガラっと勢いよく戸を開け猪手(いて)の眠る部屋に入った。

 「猪手(いて)、起きろ」

 「むにゃむにゃ、まだ夜中でございますよ、どなた様ですか…むにゃむにゃ…」

 林臣(りんしん)の臣下である猪手(いて)はよほど昨晩の宴で酒を飲んだと見え全く起きる気配がない。

 「猪手(いて)よ起きろ!」

 「若様もう飲めませんよぉ…アハハ…」

 夢から覚めぬマヌケ顔の臣下を見て、林臣(りんしん)もあきらめた。

 「仕方ないな、一人で行くか…」

 林臣(りんしん)は一人馬にまたがると屋敷を後にした。馬は順調に走り出した。目的地は稲淵だが途中の道で、男がドンドンドンと橘宮(たちばなのみや)の門を叩いている姿が見えた。男が大声を上げている事から、ただならぬ状況なのが遠目からでもわかった。

 もちろん先を急いでいるし、そもそも普段から馬を止めたりなどしない。でも何故か今日に限り男の慌てている様子が気になり、普段なら絶対にあり得ないが、馬を止め方向転換すると男のもとに向かった。

 「かような朝からどうしたのだ?」

 「あっ!これは林臣(りんしん)様!申し訳ありません。なんせ慌てておりまして、ついつい朝から大声を上げてしまいました。お許しください」

 男は慌てて挨拶をし頭を下げた。

 「で、どうしたのだ?」

 「はい、私は軽皇子(かるのみこ)様の屋敷で働く使用人のニ田(にた)と言います。実は数日前より皇子様の具合が悪く、高熱が続いているのです。明け方一度意識を無くされ、で、早急に薬を煎じて差し上げたいのですが、その…実は…」

 男はモゴモゴと口ごもった。

 「はっきりと言わぬか」

 「はい…昨晩の宴の準備で屋敷にある食材や薪の全てを、数日前に大王様のお屋敷に運んでしまい、何も残っていないのです。薪は少し残しておいたのですが小屋の外に置いておいたので、夜露に濡れ全く火がつかない状態でございます。朝廷の薬草庫にも行きましたが在庫がなく困り果てていたところ、橘宮(たちばなのみや)の屋敷の倉に薪が備蓄されていると聞き、急いでまいったのです、、しかし誰もおりません。無断で入るわけにもいきませんし、どうしたものかと途方にくれております」

 男の眉毛が下がり今にも泣き出しそうだ。

 「軽皇子(かるのみこ)様の具合はかように悪いのか?」

 「はい、先ほど小墾田宮(おはりだのみや)より医官を呼んだのですが、鍼だけではどうにもならないと…」

 二人が門の前でやり取りをしていると、ギギィと門が開き、気だるそうな若い少年が顔をのぞかせた。門番の少年の漢人(あやひと)だ。

 「あっ、漢人(あやひと)開けるのが遅いではないか!」

 男が大きな声で叫んだ。

 「あっニ田(にた)様でしたか、、すみません釜戸の番をしていたものですから、、それと…林臣(りんしん)様が、な、なぜここに⁉︎」

  漢人(あやひと)林臣(りんしん)を見ると目をパチパチとさせ驚いた表情をし、頭を下げた。

 「急用なのだ!小彩(こさ)はどこにいる?」

 「小彩(こさ)さまなら先ほど、燈花(とうか)様と二人で北山に葛花を取りにゆくと言って出ていきました、なんでも煎じで飲むと二日酔いに効果てきめんらしいのです。私もまだまだ眠いのに釜戸の番をしろって叩き起こされたんです」

 漢人(あやひと)が不満そうに口を尖らせて言った。

 「そうか、で、いつ戻るのだ?」

 「さぁ、お時間までは…」

 「それでは困るのだ薪が早急に必要だ、門番のおまえが取ってこられるかどうか、、」

 「薪なら、東棟の一番奥の小屋にたんまりございますのでお持ちしますよ」

 「それを早く言え!良かった急いで持ってきてくれ!いや、私も手伝おう」

 男は安心したのか袖で汗をぬぐうと今度は漢人(あやひと)に中に案内するようにと急かした。


 「待て、二人は北山に向かったのか?」

 「はい、確かに北山に行くと言っておりました」

 林臣(りんしん)は少し考えたあと、男に言った。

 「ふむ…そなたニ田(にた)と申したな?大王様の屋敷に急いで遣いをだせ、念のため数名の兵を北山に向かわせた方が良いと伝えよ」

 「えっ?はっ、はい…林臣(りんしん)様、でも何故ですか?」

 「昨日の宴での女官とその侍女が獰猛なイノシシの餌になりそうだ、とでも伝えろ」

 林臣(りんしん)は気だるそうな口調でそう言い、一瞬ニヤリと男の顔を見ると、何もなかったかのようにさっと馬にまたがり行ってしまった。