都を出ると百済大寺の巨大な塔が前方に見えた。それを横目に山の奥深くへと馬車は進んだ。最初のうちは水田も見えたが山間を抜けると一気に道幅は狭くなり青々とした山が目前まで迫った。馬車はそのまま緩く長い上り坂をゆっくりと進み途中で歩みを止めた。
橘宮を出発してからそれほど時間は経っていないと思う。おそらく小一時間位だろうか、外はまだ明るく午後の強い日差しのままだ。私は都からそう離れていないことにひとまず安堵した。
冬韻は馬を降りると馬車の戸を開けて言った。
「燈花様、到着いたしました。こちらが後宮の屋敷でございます」
ゆっくりと馬車を降りるとさっきまでの山道からは想像できないほど平たい大地が目の前に広がっていた。山の中腹を切り開いた土地なのか、宮の裏手に山がまじかに見えた。
宮の正面には大きな門が構えられ高い土壁が敷地を囲むように裏山へと続いている。門番だけでなく壁の前にも甲冑をつけた隼人らが均等な距離で立ちこちらをジロジロと見ている。
冬韻はキョロキョロと挙動不審な私の前に立つと、門の奥の方へ進むようにと手を向けた。案内されるがまま門をくぐり抜けた。
敷地の中にはいくつもの平屋の建物が裏山の方へと連なるように建っている。宮の南側に面した一番大きな屋敷の前に山代王と王妃、側室の白蘭が立っているのが見えた。彼らの横には大勢の采女達がずらりと整列している。想像もしていなかった盛大な出迎えに緊張で背筋はピンと伸び一気に身が引き締まった。
「燈花、よく来てくれた」
山代王は私のもとへと駆け寄ると、私の手を取り握りしめた。数日前に会ったばかりなのにどこか懐かしい。後宮の中で見る彼は一国の王に相応しく力強く威厳があり逞しく見えた。
「勿体ないお言葉でございます」
私が言うと山代王は優しく微笑み、私の手を引き王妃の前に連れていった。
「王妃よ、このものが橘宮の燈花だ。さぁ、燈花、王妃に挨拶を」
「はい、王妃様。橘宮より参りました、燈花と申します」
私が震える声で挨拶をすると、王妃が優しく答えた。
「よく来てくれた、そなたのことは王様からよく聞いている。かしこまることはない、顔を上げなさい」
「は、はい」
握った手のひらが汗でびっしょりだ。
「王様から容姿端麗の美しい女人だと聞いていたが全くもって誠であるな。さぁ、長旅で疲れたであろう、中に入って休みなさい」
王妃が微笑みながら優しく言った。
「感謝いたします」
私が軽く会釈をすると、隣にいた山代王が笑い始めた。
「ハハハハ、もはや私が居なくとも良さそうだ。もう互いに打ち解けているように見えるぞ」
「これも全て王様の人徳のなせる業でしょう」
王妃が少しからかい気味に返すとその場は一気に和み采女達もクスクスと下を向き笑った。
「さあ、そなたの屋敷に案内しよう」
山代王は嬉しそうに言うと、再び私の手を握り歩き始めた。彼の温かな手にひかれ堂々と歩くなんてまだ夢を見ているようだ。
外から見るよりも後宮の敷地は広く簡単に迷いそうだ。敷地のいたるところに撫子のピンクの花が咲き、紫陽花も一番の見頃を迎えていた。
通り過ぎる若い采女達は私達の姿を見ると一斉に足を止め挨拶をした。どの采女も身なりも立ち振る舞いも美しく見とれてしまった。しばらく歩いたあと、一棟の屋敷の前で立ち止まった。
「ここが今日からそなたが住む屋敷だ」
他の屋敷に比べると簡素な作りだが入口の側に植えられた芍薬の白く大きな蕾がシンプルな建物によく調和し美しかった。
山代王はそのまま私の手を引き屋敷の中へと入った。中に入ると小さな広間がありそれに面して左右と正面に部屋があった。正面の部屋へと進み戸を開けたとたん、太陽の光が顔面を照らし眩しくて目を閉じた。
日差しをよけながら目を開けると部屋の広さに驚いた。橘宮の時よりも何倍も広く明るく、太陽の光が部屋のあちこちに差し込んでいる。部屋の隅には白檀の香が焚かれ、濃厚な木の香りが心を落ち着かせた。煌びやかな石で装飾された棚や寝具のそばにも季節の花が美しく生けられ、壁には鮮やかな色に染められた絹の衣が何着もかけられていた。
「気に入ったか?」
呆然とする私の顔を覗き込むと、山代王が得意気な顔で言った。
「はい、とても素敵すぎて、まだ夢を見ているようです…ですが、私のような身分の人間がこのような待遇を受けて、なんというか、気が引けます…」
戸惑う私を山代王は優しく抱きしめた。
「何を言うのだ、正式な婚儀こそ済ませてはおらぬが、そなたはもう王族の一員だ。そなたの為に用意した私の心だ。受け取って欲しい」
「山代王様…」
山代王の私を見つめる熱い眼差しが恥ずかしくて目をそらした。
「あ~っ、そなたをすぐにでも、私の所に召したいが正式な婚姻の儀が終わるまでは、見守る事しかできぬ。なんと歯がゆいのだ。これほどまでにそなたを切望しているのに…」
山代王はそう言うと強く私を抱きしめ直した。
「燈花よ、知っていると思うが、私の住まいはここではないのだ。なれど、そなたに会いに頻繁に訪れると約束する」
「存じております。でもおそばに居られてとても嬉しいです。私も早くここでの暮らしに慣れるよう努めます」
「そなたのそのような健気な心に惚れているのだ」
山代王は私を見つめ顔を近づけた。ゆっくり目を閉じると彼の唇の感触が伝わってきた。なんて優しく温かな唇なのだろう…いつまでもこの幸せで穏やかな時間が続きますように…
「そなたもさぞ疲れたであろう、ゆっくり休みなさい。また明日ゆっくり話そう。私の家族も紹介せねばならぬしな。後ほど食事を運ばせるゆえ食べなさい」
「ありがとうございます」
そう言うと、山代王は名残惜しそうにため息をつき部屋から出ていった。一人になった部屋はガランとし静まり返っている。寝台に座り部屋に差し込む光をボーッと眺めた。
橘宮のみんなは今頃何をしているだろうか…夕方だからみんな忙しく厨房を走り回っているのだろう…。小彩と小帆はいつものように竈をめぐる小競り合いをしていないだろうか?
ふっと涙がこみ上げた。袖から中宮からもらった手巾を取り出し見つめた。手巾の上にポタポタと涙がこぼれ落ちた。
中宮様、とうとう運命が動き出しました…
あなたの想いを果たす事が私に出来るでしょうか?もし何も見出せぬままこの地に埋もれてしまっても私を許してくれますか?
寝台に寝ころびなおし天井に反射する夕方の陽ざしを見ていた。いつのまに深い眠りに落ちたのだろう…部屋の外から侍女の呼ぶ声がかすかに聞こえたが、目を開けることができなかった。
橘宮を出発してからそれほど時間は経っていないと思う。おそらく小一時間位だろうか、外はまだ明るく午後の強い日差しのままだ。私は都からそう離れていないことにひとまず安堵した。
冬韻は馬を降りると馬車の戸を開けて言った。
「燈花様、到着いたしました。こちらが後宮の屋敷でございます」
ゆっくりと馬車を降りるとさっきまでの山道からは想像できないほど平たい大地が目の前に広がっていた。山の中腹を切り開いた土地なのか、宮の裏手に山がまじかに見えた。
宮の正面には大きな門が構えられ高い土壁が敷地を囲むように裏山へと続いている。門番だけでなく壁の前にも甲冑をつけた隼人らが均等な距離で立ちこちらをジロジロと見ている。
冬韻はキョロキョロと挙動不審な私の前に立つと、門の奥の方へ進むようにと手を向けた。案内されるがまま門をくぐり抜けた。
敷地の中にはいくつもの平屋の建物が裏山の方へと連なるように建っている。宮の南側に面した一番大きな屋敷の前に山代王と王妃、側室の白蘭が立っているのが見えた。彼らの横には大勢の采女達がずらりと整列している。想像もしていなかった盛大な出迎えに緊張で背筋はピンと伸び一気に身が引き締まった。
「燈花、よく来てくれた」
山代王は私のもとへと駆け寄ると、私の手を取り握りしめた。数日前に会ったばかりなのにどこか懐かしい。後宮の中で見る彼は一国の王に相応しく力強く威厳があり逞しく見えた。
「勿体ないお言葉でございます」
私が言うと山代王は優しく微笑み、私の手を引き王妃の前に連れていった。
「王妃よ、このものが橘宮の燈花だ。さぁ、燈花、王妃に挨拶を」
「はい、王妃様。橘宮より参りました、燈花と申します」
私が震える声で挨拶をすると、王妃が優しく答えた。
「よく来てくれた、そなたのことは王様からよく聞いている。かしこまることはない、顔を上げなさい」
「は、はい」
握った手のひらが汗でびっしょりだ。
「王様から容姿端麗の美しい女人だと聞いていたが全くもって誠であるな。さぁ、長旅で疲れたであろう、中に入って休みなさい」
王妃が微笑みながら優しく言った。
「感謝いたします」
私が軽く会釈をすると、隣にいた山代王が笑い始めた。
「ハハハハ、もはや私が居なくとも良さそうだ。もう互いに打ち解けているように見えるぞ」
「これも全て王様の人徳のなせる業でしょう」
王妃が少しからかい気味に返すとその場は一気に和み采女達もクスクスと下を向き笑った。
「さあ、そなたの屋敷に案内しよう」
山代王は嬉しそうに言うと、再び私の手を握り歩き始めた。彼の温かな手にひかれ堂々と歩くなんてまだ夢を見ているようだ。
外から見るよりも後宮の敷地は広く簡単に迷いそうだ。敷地のいたるところに撫子のピンクの花が咲き、紫陽花も一番の見頃を迎えていた。
通り過ぎる若い采女達は私達の姿を見ると一斉に足を止め挨拶をした。どの采女も身なりも立ち振る舞いも美しく見とれてしまった。しばらく歩いたあと、一棟の屋敷の前で立ち止まった。
「ここが今日からそなたが住む屋敷だ」
他の屋敷に比べると簡素な作りだが入口の側に植えられた芍薬の白く大きな蕾がシンプルな建物によく調和し美しかった。
山代王はそのまま私の手を引き屋敷の中へと入った。中に入ると小さな広間がありそれに面して左右と正面に部屋があった。正面の部屋へと進み戸を開けたとたん、太陽の光が顔面を照らし眩しくて目を閉じた。
日差しをよけながら目を開けると部屋の広さに驚いた。橘宮の時よりも何倍も広く明るく、太陽の光が部屋のあちこちに差し込んでいる。部屋の隅には白檀の香が焚かれ、濃厚な木の香りが心を落ち着かせた。煌びやかな石で装飾された棚や寝具のそばにも季節の花が美しく生けられ、壁には鮮やかな色に染められた絹の衣が何着もかけられていた。
「気に入ったか?」
呆然とする私の顔を覗き込むと、山代王が得意気な顔で言った。
「はい、とても素敵すぎて、まだ夢を見ているようです…ですが、私のような身分の人間がこのような待遇を受けて、なんというか、気が引けます…」
戸惑う私を山代王は優しく抱きしめた。
「何を言うのだ、正式な婚儀こそ済ませてはおらぬが、そなたはもう王族の一員だ。そなたの為に用意した私の心だ。受け取って欲しい」
「山代王様…」
山代王の私を見つめる熱い眼差しが恥ずかしくて目をそらした。
「あ~っ、そなたをすぐにでも、私の所に召したいが正式な婚姻の儀が終わるまでは、見守る事しかできぬ。なんと歯がゆいのだ。これほどまでにそなたを切望しているのに…」
山代王はそう言うと強く私を抱きしめ直した。
「燈花よ、知っていると思うが、私の住まいはここではないのだ。なれど、そなたに会いに頻繁に訪れると約束する」
「存じております。でもおそばに居られてとても嬉しいです。私も早くここでの暮らしに慣れるよう努めます」
「そなたのそのような健気な心に惚れているのだ」
山代王は私を見つめ顔を近づけた。ゆっくり目を閉じると彼の唇の感触が伝わってきた。なんて優しく温かな唇なのだろう…いつまでもこの幸せで穏やかな時間が続きますように…
「そなたもさぞ疲れたであろう、ゆっくり休みなさい。また明日ゆっくり話そう。私の家族も紹介せねばならぬしな。後ほど食事を運ばせるゆえ食べなさい」
「ありがとうございます」
そう言うと、山代王は名残惜しそうにため息をつき部屋から出ていった。一人になった部屋はガランとし静まり返っている。寝台に座り部屋に差し込む光をボーッと眺めた。
橘宮のみんなは今頃何をしているだろうか…夕方だからみんな忙しく厨房を走り回っているのだろう…。小彩と小帆はいつものように竈をめぐる小競り合いをしていないだろうか?
ふっと涙がこみ上げた。袖から中宮からもらった手巾を取り出し見つめた。手巾の上にポタポタと涙がこぼれ落ちた。
中宮様、とうとう運命が動き出しました…
あなたの想いを果たす事が私に出来るでしょうか?もし何も見出せぬままこの地に埋もれてしまっても私を許してくれますか?
寝台に寝ころびなおし天井に反射する夕方の陽ざしを見ていた。いつのまに深い眠りに落ちたのだろう…部屋の外から侍女の呼ぶ声がかすかに聞こえたが、目を開けることができなかった。
