チュンチュン、チュンチュン
鳥の鳴き声と共に朝の光が差し込んできた。
トントン、トントン
「燈花様、朝になりましたがご気分はどうですか?」
昨晩の事もあり小彩はいつもよりも遅くに部屋にやって来た。
「…えぇ」
あぁ、頭の中ではまだモヤモヤと深い霧が立ち込めている。昨夜の事を思い出し再び唇を触った。冷たくも温かくもない温度のない唇…。でも、夢じゃない…両手で顔を覆った。
小彩が運んで来た桂花茶から金木犀の甘く良い香りが部屋中に漂っている。
「お気持ちは落ち着きましたか?」
私が首を横に振ると小彩が静かに言った。
「こう言ってはなんですが、林臣様は幼少より大変聡明で狡猾なお方、執着するのは政だけだと思うのです。それに色恋事の話を今までに聞いたことがありませんし、きっとお酒の席での悪いご冗談でございましょう」
確かに言われてみればそうだ。先日猪手も同じことを言っていた事を思い出した。私は深酔いした林臣に見事にからかわれたのだろうか?彼は今頃しめしめと薄ら笑いを浮かべているのだろうか?
「そうかもしれない…きっとそうだわ」
私は自分に言い聞かせるように小彩に言った。一瞬、昨夜の林臣の真っすぐな瞳を思い出したがかき消すようにもう一度頭を振った。
「明日は王家からの迎えが来る待ちに待った日です。ついに燈花様の新たな人生が始まるのです。王様がお悦びになられるように衣と髪飾りを合わせましょう…」
小彩は私を励ますように言うと衣を手に取った。彼女が目に涙を浮かべているのがわかった。小彩はすぐに顔をそらすと袖で軽く瞼を押え何もなかったかのように準備を進めた。
そうよ、新しいステージが始まるのだから余計な事に惑わされている場合ではない。私は気持ちを切り替えると、戸口の横に置かれた桶の水を勢いよく顔にかけた。
橘宮での最後の一日もあっという間に過ぎ、ついに王宮へと向かう日がやってきた。宮は朝から慌ただしく動き出していた。
小彩は時間をかけて丁寧に私の髪を結い上げると山代王から贈られた簪を一番高い所に挿してくれた。簪にちりばめられた赤や黄色の宝石が太陽の陽にあたりキラキラと輝いている。
真新しい緑の裳をはいたあと深紫の美しい絹の衣をまとい、帯紐をキツく結んだあと肩に薄橙色の領布をかけた。そして最後に山代王からもらった翡翠の指輪を手に取り首にかけた。
「小彩、これは夢ではないのね。私本当にこの宮を去るのね…」
「さようでございます。本日の燈花様はいつにも増して大変お美しいです…」
私は涙を浮かべた小彩をぎゅっと抱きしめた。彼女の助けなしでは生きてこられなかった。その時がきたら必ず彼女にこれまでの恩を返すと心に固く誓った。
「ここを離れても、私に会いにきてくれるでしょう?」
「もちろんでございます。お許しがいただければ、いつだって燈花様のもとに参ります」
私は頷き部屋を出た。戸口の外では宮の皆が別れの挨拶をしようとずらっと並んでいた。東門の横に六鯨と漢人がもの寂し気に立っているのが見えた。私は皆への挨拶を済ませると二人のもとへと急いだ。六鯨が目頭を押さえながら言った。
「燈花様、ついにこの日が来たのですね」
「六鯨さん、本当に長いことあなたのお世話になったわ。あなたの尽力がなかったら、このように生きていることは出来なかった。とても感謝しています」
私は心からの感謝の言葉を告げた。彼もまた私を二度も救った命の恩人だ。
「とんでもないことでございます。亡き中宮様もきっとお喜びになられているはずです」
「そうね…。そう願うわ」
隣にいる漢人も目を真っ赤にしている。
「漢人、今までありがとう。六鯨さんや宮の人達を助けてあげてね」
「はっ、承知しました!」
漢人はそう言うと鼻をすすった。ちょうどその時パカパカと馬のひずめの音が聞こえ、門の前に馬に乗った冬韻が現れた。坂の下にも馬車ともう一台荷馬車らしきものが見え、二台を前と後ろで挟むように警護用の馬が数頭見えた。
冬韻はさっと馬から降りると、私の前にひざまずいた。
「燈花様、お迎えに上がりました。荷物は、後方の馬車に乗せて下さい。燈花様は先頭の馬車にお乗り下さい」
「はい」
私はうなずくともう一度後ろを振り返り、宮の皆に別れの挨拶をした。
さぁ、行こう…このまま運命に身をゆだねるしかない、新たな道を歩きださないと…
私は覚悟を決め最後に小彩を見た。彼女は小さく頷き微笑んだ。私は坂の下に向かって歩きだし用意された馬車に乗り込んだ。
「出発!!」
冬韻の大きな掛け声と共に、馬夫が手綱を引き馬車がゆっくりと動き始めた。
「燈花様~」
「燈花様お達者で~」
私は大きく手を振った。門の前にたたずむ皆の姿が徐々に小さくなっていく。
さよなら、宮のみんな…どうかお元気で…
我慢していた涙がぽろぽろと頬を伝った。飛鳥に来て以来ほぼ橘宮でしか過ごした事がない。慣れ親しんだ場所を去るのは本当に辛い。けれど仕方がない、一歩前に進むにはいつだって勇気が必要だ。
鳥の鳴き声と共に朝の光が差し込んできた。
トントン、トントン
「燈花様、朝になりましたがご気分はどうですか?」
昨晩の事もあり小彩はいつもよりも遅くに部屋にやって来た。
「…えぇ」
あぁ、頭の中ではまだモヤモヤと深い霧が立ち込めている。昨夜の事を思い出し再び唇を触った。冷たくも温かくもない温度のない唇…。でも、夢じゃない…両手で顔を覆った。
小彩が運んで来た桂花茶から金木犀の甘く良い香りが部屋中に漂っている。
「お気持ちは落ち着きましたか?」
私が首を横に振ると小彩が静かに言った。
「こう言ってはなんですが、林臣様は幼少より大変聡明で狡猾なお方、執着するのは政だけだと思うのです。それに色恋事の話を今までに聞いたことがありませんし、きっとお酒の席での悪いご冗談でございましょう」
確かに言われてみればそうだ。先日猪手も同じことを言っていた事を思い出した。私は深酔いした林臣に見事にからかわれたのだろうか?彼は今頃しめしめと薄ら笑いを浮かべているのだろうか?
「そうかもしれない…きっとそうだわ」
私は自分に言い聞かせるように小彩に言った。一瞬、昨夜の林臣の真っすぐな瞳を思い出したがかき消すようにもう一度頭を振った。
「明日は王家からの迎えが来る待ちに待った日です。ついに燈花様の新たな人生が始まるのです。王様がお悦びになられるように衣と髪飾りを合わせましょう…」
小彩は私を励ますように言うと衣を手に取った。彼女が目に涙を浮かべているのがわかった。小彩はすぐに顔をそらすと袖で軽く瞼を押え何もなかったかのように準備を進めた。
そうよ、新しいステージが始まるのだから余計な事に惑わされている場合ではない。私は気持ちを切り替えると、戸口の横に置かれた桶の水を勢いよく顔にかけた。
橘宮での最後の一日もあっという間に過ぎ、ついに王宮へと向かう日がやってきた。宮は朝から慌ただしく動き出していた。
小彩は時間をかけて丁寧に私の髪を結い上げると山代王から贈られた簪を一番高い所に挿してくれた。簪にちりばめられた赤や黄色の宝石が太陽の陽にあたりキラキラと輝いている。
真新しい緑の裳をはいたあと深紫の美しい絹の衣をまとい、帯紐をキツく結んだあと肩に薄橙色の領布をかけた。そして最後に山代王からもらった翡翠の指輪を手に取り首にかけた。
「小彩、これは夢ではないのね。私本当にこの宮を去るのね…」
「さようでございます。本日の燈花様はいつにも増して大変お美しいです…」
私は涙を浮かべた小彩をぎゅっと抱きしめた。彼女の助けなしでは生きてこられなかった。その時がきたら必ず彼女にこれまでの恩を返すと心に固く誓った。
「ここを離れても、私に会いにきてくれるでしょう?」
「もちろんでございます。お許しがいただければ、いつだって燈花様のもとに参ります」
私は頷き部屋を出た。戸口の外では宮の皆が別れの挨拶をしようとずらっと並んでいた。東門の横に六鯨と漢人がもの寂し気に立っているのが見えた。私は皆への挨拶を済ませると二人のもとへと急いだ。六鯨が目頭を押さえながら言った。
「燈花様、ついにこの日が来たのですね」
「六鯨さん、本当に長いことあなたのお世話になったわ。あなたの尽力がなかったら、このように生きていることは出来なかった。とても感謝しています」
私は心からの感謝の言葉を告げた。彼もまた私を二度も救った命の恩人だ。
「とんでもないことでございます。亡き中宮様もきっとお喜びになられているはずです」
「そうね…。そう願うわ」
隣にいる漢人も目を真っ赤にしている。
「漢人、今までありがとう。六鯨さんや宮の人達を助けてあげてね」
「はっ、承知しました!」
漢人はそう言うと鼻をすすった。ちょうどその時パカパカと馬のひずめの音が聞こえ、門の前に馬に乗った冬韻が現れた。坂の下にも馬車ともう一台荷馬車らしきものが見え、二台を前と後ろで挟むように警護用の馬が数頭見えた。
冬韻はさっと馬から降りると、私の前にひざまずいた。
「燈花様、お迎えに上がりました。荷物は、後方の馬車に乗せて下さい。燈花様は先頭の馬車にお乗り下さい」
「はい」
私はうなずくともう一度後ろを振り返り、宮の皆に別れの挨拶をした。
さぁ、行こう…このまま運命に身をゆだねるしかない、新たな道を歩きださないと…
私は覚悟を決め最後に小彩を見た。彼女は小さく頷き微笑んだ。私は坂の下に向かって歩きだし用意された馬車に乗り込んだ。
「出発!!」
冬韻の大きな掛け声と共に、馬夫が手綱を引き馬車がゆっくりと動き始めた。
「燈花様~」
「燈花様お達者で~」
私は大きく手を振った。門の前にたたずむ皆の姿が徐々に小さくなっていく。
さよなら、宮のみんな…どうかお元気で…
我慢していた涙がぽろぽろと頬を伝った。飛鳥に来て以来ほぼ橘宮でしか過ごした事がない。慣れ親しんだ場所を去るのは本当に辛い。けれど仕方がない、一歩前に進むにはいつだって勇気が必要だ。
