ボロン、ボロン…

 微かに風に乗って琴の音が聞こえる。耳を澄ませると再び琴の音が桃林の奥から聞こえて来た。

 この琴の音、昔も聞いた…きっと同じ人が弾いているのだろう…そんな事を想いながら、ゆっくりと音のする方へ近づいた。木の陰に小さな灯がゆらゆらと見え隣に人影が見えた。はやる好奇心を抑えながら静かに足音をたてずに近づいた。


    あぁ…やっぱりそうか…

 
 「林臣(りんしん)様」

 私が小さな声で呼ぶと林臣(りんしん)がゆっくりと振り向いた。梅酒の香りが辺り一面に漂っている。暗がりの中でも彼は顔色一つ変えない。

 「そなたか…良い所に来た…一曲講じよう…」

 ただ酒に酔い上機嫌なのか口調はいつもよりも明るい。そしてボロン、ボロンと再び琴を弾き始めた。彼の上機嫌さとは裏腹になぜか琴の音が寂し気に桃林に響いた。

 林臣(りんしん)は曲を弾き終えると横に置いてあった酒のとっくりを取り上げ、一気に飲み干したあと豪快に地面に倒れ込んだ。

 「あっ、林臣(りんしん)様、だ、大丈夫ですか⁉︎」

 私は急いでそばに駆け寄った。よく見ると近くには空になった酒のとっくりが数本転がっている。こんなに酒に酔っている林臣(りんしん)を今までに見た事がない。実に彼らしくない振る舞いだ、どうしたのだろうか…

 「林臣(りんしん)様、何があったのかは存じませんがこのような酒の飲み方など、賢明ではありません。林臣(りんしん)様らしくありません。お体に障りますから…」

 「ふん、そなたには関係のないこと…ぷはぁ~良い気持ちだ…」

 林臣(りんしん)は両手を広げ土の上に寝転がったままだ。私は彼の横にしゃがみ、最後のお礼の挨拶をした。別れの挨拶がこんな形になるとは想像していなかったが仕方がない。

 「林臣(りんしん)様…本日はお招きいただきありがとうございます。今まで、共に過ごせた時間も良い思い出となりましょう。どうぞお体をご自愛ください」

 そう言って立ち上がろうとした時、グイっと袖を強く引っ張られそのまま地面に倒れ込んだ。

 気付くと寝転がる林臣(りんしん)の腕の中だった。

 「り、林臣(りんしん)様⁉︎」

 さすがの私も驚いて大声を上げ林臣(りんしん)の体を手で押しのけたが、彼は何一つ慌てることなく夜空を見上げ言った。

 「そなたも見てみよ、実に美しい月だ…」

 えっ?不意をつかれた私は夜空を見上げた。確かに大きな月がぽっかりと浮かんでいる。月は明るく輝き桃林一面を青白い光で照らしていた。一瞬その幻想的で美しい光景に気を取られたが、すぐに我に返り林臣(りんしん)に言った。

 「り、林臣(りんしん)様このような行動をされては困ります。明後日には山代王様のもとに…」

 必死で起き上がろうとしたが、林臣(りんしん)の腕がしっかりと私の体を抱え身動きが取れない。

 「り、林臣(りんしん)様!」

 私はもう一度、大声を上げた。ひっそりとした桃林に私の声が響き渡った。林臣(りんしん)は少し間を置き深く呼吸すると静かに言った。

 「好いている…」

 「えっ?…」

 私が林臣(りんしん)の横顔を見ると彼はゆっくりと私の方を向き見たことのない深く真っ直ぐな瞳で言った。

 「そなたを好いている。出会った時から、今もなお…」

 時が止まったのだろうか…音が何一つ聞こえない。彼は今、何と言ったのだろう…。
林臣(りんしん)の瞳を見つめたまま瞬き一つ出来ない私に彼の顔が近づき唇が触れた。

 …嘘…突然の予想もしなかった告白に頭はクラクラと回り目の前はチカチカとし思考回路は完全に止まってしまった。手足もピクリとも動かない。目の前に見えるのは林臣(りんしん)の長いまつげだけだ…。

 ハッ…我に振りドンと林臣(りんしん)を思い切り押しのけ立ち上がった。木の根につまずきながらもふらふらとした足取りで屋敷を抜け出し、気がつくと月明りに照らされた道を無我夢中で走っていた。

 ドンドン、ドンドン、ドンドン。

 「開けてちょうだい!!」

 漢人(あやひと)が大急ぎでやってきて門の戸を開けた。

 「と、燈花(とうか)様!どうされたのです!」

 私は何も言わずに走って自分の部屋に戻った。部屋に入ったとたん体中の力が抜けドスンと床にしゃがみ込んだ。

 最低だ…どうして…なぜ、今あんなことを彼は言ったのだろう…しかもキスまで…。私は衣の袖をぎゅっと握りしめ唇を拭いた。こんな風に林臣(りんしん)様とお別れしたくなかった…涙が溢れ出た。

 ドタバタとした音に気が付いたのかすぐに小彩(こさ)が飛んできた。私のただならぬ様子に気が付くと静かに隣に座り優しく背中をさすった。

 気持ちが落ち着いてきた所で嶋宮(しまのみや)での出来事を話した。小彩(こさ)も最初は驚いた様子だったが、深酒による一時の気まぐれで時間が経てば忘れてしまうだろうと言い慰めてくれた。悲しいのか切ないのか、自分でもこの感情がよくわからなかった。

 私はこの晩、一向に寝つけず何度も寝返りをうっては天井を見つめた。