「おい!誰かすぐに侍医を呼んでまいれ!中宮様を直ぐに寝所にお連れしろ」

 大臣らしき小男は慌てて中宮のそばまで来ると大きな声で叫んだ。

 「おまえたちはもう戻りなさい」

 数人の侍女達に抱えられながら中宮が部屋を出ていった。

 「燈花(とうか)様、宮に戻りましょう」

 部屋を出ると辺りはもう日暮れで、空は赤く染まりはじめていた。遠くでカラスの鳴く声が聞こえた。

 「中宮様は大丈夫かしら…」

 私が呟くと小彩(こさ)が静かに言った。

 「数年前に東宮聖王(とうぐうせいおう)様を亡くされてから、めっきり落ち込んでしまって元気がないのです。それに中宮様もお年ですし、季節も冬に向け寒くなっているので、ここ数日体調が優れぬご様子です。でもお側には優秀な侍医がおりますし、きっとすぐに良くなるはずでございます。さぁ、外は冷えますから馬車に乗って下さい」

 「えぇ…」

  東宮聖王(とうぐうせいおう)って竹田皇子(たけだのみこ)の事かしら?でも史実では、早世されたはず、別のご子息かしら…

 一瞬そんな疑問を抱いたが、とても疲れていた上に馬車に早く乗るように小彩(こさ)にせかされたので、それ以上考えを巡らせる事は出来なかった。

 帰りの道、飛鳥の都は月明かりに青白く照らされとても幻想的で美しかった。生まれて初めて月の光こんなにも明るく、夜がこんなにも暗いことを知った。橘宮(たちばなのみや)に着くと、安心したのか激しい疲労に襲われた。

 「燈花(とうか)様、私はお隣の部屋におりますので、何かあれば直ぐにお呼び下さい。あと簡単なお夜食をお持ちいたしますね」

 「ありがとう…私何も覚えていなくて、これから色々迷惑かけると思うけど、宜しくね…」

 「いいえ、とても嬉しくてワクワクしております。中宮様のとても大事なお方ですから、心を込めてお仕えいたします」

 小彩(こさ)は茶めっけたっぷりに笑った。

 「ありがとう、とても心強いわ。あ、後、あの紫の帽子を被っていた方は誰なの?お偉い方?」

 「豊浦大臣(とゆらだいじん)様のことでしょうか?」

 「豊浦大臣(とゆらだいじん)?」

 「はい。大臣の蘇我毛人(そがのえみし)様です。中宮様の側近で朝廷の大臣です」

 背筋が凍りついた。まさか、さっきの大臣が蘇我蝦夷(そがのえみし)だとは思わなかった。

 「そ、そうなのね…」

 私がドギマギと言うと、

 「燈花(とうか)さま、大臣様をご存知だったのですか?」

 小彩(こさ)が目を丸くして言った。

 「いえ!まさか、勿論知らないわ!ただ気になったものだから…」

 私が手を振りながら誤魔化すと、

 「そうですか…ではゆっくりおやすみ下さい」

 小彩(こさ)は少し不思議そうな表情をし、私を見たあと軽くお辞儀をして部屋を出ていった。

 …あの悪名高い蘇我蝦夷(そがのえみし)?…ダメだわ。何も考えられない、クタクタだわ…とにかく今日は色々あったし長い一日だった…また明日考えよう…

 とても空腹だったが、寝台に横になったとたん死んだようにそのまま深い眠りに落ちてしまった。あんなに空腹だったのに、小彩(こさ)の呼び掛けにも起きれず、わざわざ運んでくれたお粥にも口をつける事が出来なかった。