「…十一時…え!?」
ひとりだと、際限なく寝てしまう。
それが怖い。
やることがないなら尚更だ。
今日もまた昼近くまで眠ってしまった。
のろのろと起き出して、シャワーを浴びる。
こんなふうに暮らしてみて思ったけれど、身なりも生活も、「ちゃんとしよう」と思うから、ちゃんとするのだ。でも「ちゃんとしよう」と思わなければ、全然ちゃんとしない。当たり前のようにやって来たことが、そんなあやふやなものの上に成り立っていたことに驚く。つまり問題は、ちゃんとしていないことではなく、「ちゃんとしよう」と思えないことなのだ。
「…ヒマなんだな。」
「…。」
「あ、いや、ごめん。」
「…ううん。いいの、ほんとのことだから。」
手塚さんは手を休めることなく、私の今日の発見を聞いて笑っていた。せめて仕事の邪魔だけはしないようにしようと思うのだけど、手塚さんが何も言わないのをいいことに、ついここに来てしまう。
「…それで、何だっけ?パソコン?」
「あ、うん。これなんだけど。」
私はバッグから愛用のノートパソコンを取り出した。
「調子悪いんだけど。」
「うん。ちょっと見せて。」
定位置のモニターの山の中から手塚さんが手を伸ばしたので、はい、と渡す。開いてチェックしてくれているようだった。ああもう、パスワードくらいかけろって…ああ、これね…確かに変だな…そんな声が聞こえていたが、五分ほどして、
「ダメだね、もう。」
という声が返って来た。
「そうなの?」
「そもそも、このOSのサポートはもうすぐ終了になるぞ。」
「どういうこと?」
「まあ簡単に言えば、もう使うのをやめた方がいいってこと。」
「そうなんだ。」
確かに、何年前に買ったのか思い出せないほど使って来たように思う。ずいぶん思い出の詰まっているノートパソコンだけど、パソコンは思い出があるからって長く使うものでもないらしい。うーん、と考えていると、
「どうするの?」
と手塚さんが聞いて来た。無職の今、手痛い出費ではあるが、なければ困るものだ。どうも選択肢はないらしい、と思った。
「うん。まあ、買い替えようかな、と思う。」
そう答えた私に、
「そうか。そうだな、俺もそれがいいと思う。」
とまた声だけが返って来た。それで、分かった、ありがとう、とお礼を言って、帰ろうとソファから立ち上がった。するとまたモニターの山の中から声がした。
「…選んでやろうか?」
「え?」
「今日、客先に出るんだけど、そのあとなら空いてる。」
はい、とまた手だけを伸ばして、手塚さんが私のノートパソコンを返して来た。
「…お願いします。」
それを受け取って、私は言った。
「大家さん。」
声をかけられても一瞬、分からなかった。
「て、手塚さん。」
「うん。」
スーツ姿の手塚さんを初めて見た。何て言うか。うん。新鮮。
「じゃあ行くか。」
「はい。」
夕方、仕事が終わった手塚さんと、アキバで待ち合わせした。
「大体このあたりのやつがいいんじゃないかっていうのは考えてある。」
「ほんと?ありがとう。」
「予算的にも問題ないと思う。」
駅前の家電量販店に入り、エスカレーターに乗り込む手塚さんについて行く。
「ここ、良く来るの?」
「ん?まあ、仕事柄。」
慣れた様子で歩いて行く手塚さんの後ろ姿は、働く男、という感じがした。細身という印象だったけれど、こうして見ると、広い背中はやっぱり男の人なんだな、と思う。
「えっと…ああ、ここだな。」
目当てのメーカーを見つけた手塚さんは、振り返りもせずどんどん進んで行く。並んでいるパソコンは、私には全部同じに見えたけれど、売り場の中ほどで手塚さんは、あ、これだ、と言ってピタッと止まった。これこれ、と指差す。そして近くにいた店員を捕まえると、あれこれ質問していた。そして、
「うん、やっぱりこれでいいと思う。」
と目の前にあるノートパソコンをトントンと指で叩いて言った。
「へえ。モニターも大きいし、良さそうだね。」
私は画面に揺れる不思議な模様を眺めながら言った。見るべきはそこじゃないんだろうけど。
「大家さんの今のマシンとは比べ物にならないようなハイスペックなマシンだよ。」
「それでこの値段なの?」
「うん。今はこれだけ出せば、このくらいのものは買える。」
へえ、と頷くばかりの私に、それに、と手塚さんは続けた。
「これなら仕事でも使える。」
そう言って私を見て、ふっと笑った。
「え。でも私、」
「今は休んでるけど、いずれは戻るかも知れないでしょ。」
そう言って手塚さんは私の頭を突いた。それで、うん、そっか、と答えた私に、よし、じゃあグレーか黒か、白が可愛いかな、選んで、と言った。
帰ったらセットアップしてくれると言うので、私のおごりでご飯を食べて帰ることにした。そんなのいいよ、と彼は笑ったけれど、私にだって貯金くらいある!と粋がると、余計ご馳走になりにくい、と苦笑しながらも、じゃあ、と時々行くというイタリアンに連れて行ってくれた。リーズナブルな店を選んでくれたんだな、と思う。でもパスタがめちゃくちゃ美味しかった。
「学生時代、この近くでバイトしてたことがあったの。」
ご飯も済んで駅に向かう帰り道、ふと思い出して私はそんな話をした。
「何のバイト?」
「日本料理の店でね、着物着てやってたんだけど。」
ふうん、と手塚さんは特に興味もなさそうだった。彼もそんな時代があったんだろうか、と思い、
「手塚さんってバイトしてたことあるの?」
と聞いてみた。私は興味あります。
「あるよ。学生の頃は。」
「何してたの?」
「プログラマー。」
「そんな学生いるの!?」
「俺の周りには結構いたよ。」
へえ、学生時代の手塚さんってどんな感じだったんだろう、と思ったとき、目の端に入ったビルに見覚えがあるような気がして、私は立ち止まった。
「どうした?」
「あ。このビル。」
「ん?」
「…今思い出したんだけどさ、そのバイトしてたときにちょっと変なことがあってさ。」
大学二年生くらいのことだったろうか。私は授業が終わったあと、この近くの店でアルバイトをしていた。その頃は割とヒマだったのと、バイト先のみんなとも仲が良く楽しかったのとで、私は週に四~五日ほど出勤して、しかも閉店間際の十時過ぎまで働くという生活を送っていた。
その人は、マリさん、といった。昼間はOLさんをしていて、夜はその店でバイトをしていた人だった。店に、そういう人は何人かいた。昼間は経理をやっているの、とマリさんは言っていた。客先の電話番号も百件くらい暗記している、なんて話もしていた。気さくな人で、ずいぶん年下の私にも優しくしてくれた。マリさんも私と同じようなシフトで入っていたので、帰り道が一緒になることがちょくちょくあった。
ある日、仕事が終わって、私たちはいつものように一緒に駅に向かっていた。するとマリさんが、
「私、今日こっちだから。」
またね、と手を振って道をそれていった。いつもは駅まで私と一緒のマリさんだったが、その日は何か用事があったのかな、と思って、私も手を振って別れた。でもそこから、同じようなことが二、三度あった。
その日もマリさんは、私、こっちだから、と言って道をそれて行った。うん、またね、と手を振ったあとで私は、彼女に借りていた本を返し忘れていたことに気づいた。それで、今ならまだ間に合うだろうと、別れたばかりの彼女を追った。少し行ったところで、ワンピース姿の彼女の背中を視界に捉えた。
「あ、マリさ…」
そう声を掛けようとした時、ふいに向きを変えたその背中が、そこにあったビルの中にすっと消えて行った。
「…。」
何か見てはいけないものを見た気がして、その日私は本を返せずに帰った。次にバイトに行った時、私はマリさんの入って行ったビルの前を通ってみた。鈴木金属、と書いてあった。
それからどうしても気になって、彼女が帰りに道をそれる時、悪いとは思いつつ何度か後を付けてみた。私と別れた彼女は毎回、近くのビルに入って行く。でも入るビルはいつも違っていた。鈴木金属に入ったのはあの一回だけで、そのあとは不動産会社、食品の輸入会社、社名からは何をしてるのかは分からない会社、それからマンションに入ったのも一度だけ見たことがある。
鈴木金属、と書かれた青銅色のプレートは、あの頃よりもずいぶん古ぼけて見えた。
ふうん、と言って手塚さんは、この懐かしいビルを見上げていた。
「なんか、悪いことでもしてるんじゃないかって。それでマリさんには何も聞けなかったんだけど。」
「悪いことって?」
ビルを見上げたまま、手塚さんが言った。
「なんだろう、うん、なんか悪いこと…スパイとか?」
「そんな感じの人だったの?」
「ううん、全然。きれいで優しい普通のお姉さんだったよ。話も面白かったし。」
「じゃあ違うんじゃない?」
大家さんに見つかるスパイって、と手塚さんは周辺を眺めながら生返事だ。
「うん…まあそうだよね。…単に、何か用事があったんだろう。まあいいや、行こう。」
私がそう言って歩き出そうとすると、
「用事ねえ。鈴木金属に?」
ベアリングの会社みたいだけど、とエントランス前の数段の階段を上り、入り口横に掲げられた会社案内を読んでいた手塚さんは、ビルの中をちょっと覗いて、それから私に言った。
「大家さん?」
「うん?」
「まだ時間ある?」
「ないと思う?」
聞いただけ、と手塚さんは笑った。
まずは大家さんが働いていた店に行ってみよう、と手塚さんが言うので、私はほぼ十年ぶりになるその店に向かった。鈴木金属から歩いて十分ほどの場所にあったその店は、すでに別の店に変わっていた。
「ここ?」
「そう。でももう違う店になっちゃってるね。」
入れ替わりは激しい街だ。まだ続いているとは思っていなかったが、マンガ喫茶へと変貌を遂げ、もはやあの頃の面影もないその店を見るとやはり、何となく寂しいものはあった。
「ふうん。大家さん、ここでバイトしてたんだ。着物着て。」
手塚さんもその店を眺めながら、そう言った。
「うん。」
なんだ、ちゃんと話聞いてたんだ。
「…ちょっと見てみたかった気もするな。」
「…え?」
「うん。まあいいや、とにかくここがスタート地点だね。」
空耳だろうか。そう言うなりさっさと歩き出した手塚さんを、私は慌てて追いかけた。
「スタート地点?」
「ここから、大家さんが覚えている限りの、マリさんが立ち寄った場所を辿ってみよう。」
「あ、う、うん。」
なるべく近い順に回って、と手塚さんが言うので、私は当時の記憶を探りながら、いくつかの会社や、マンションなんかを案内して回った。最初は不動産会社、次が名前だけでは何をしているか分からない会社(ああ、ここはウェブ系の開発やってるところだね、と手塚さんが言っていたので今はもう分かる)、マンション、それと歩いていたら思い出した関西の製紙会社の支社、それから鈴木金属を過ぎて、
「あとは、食品の輸入会社かな。…確かこの辺だったと思うんだけど。」
と私がきょろきょろしていると、
「あのビルじゃない?」
と手塚さんが通りの向こう側にあるビルを指した。確かにあんな感じだった、と思い、道を渡って見てみると、覚えのある社名が書いてあった。
「うん、そうだね。ここだ。覚えてるのは、ここが最後かな。」
「うん。」
手塚さんはそう返事をすると立ち止まり、スマートフォンを取り出した。地図を見ているようだった。そして画面と見比べながら、その食品輸入会社のビルの周りをちょっと調べていたみたいだったが、ああ、ここかな、と言って、私を手招きした。
「え?」
「ついて来て。」
そう言うと彼は、ビルとビルの隙間のような細い路地をずんずんと進んで行った。
「て、手塚さん、どこに行くの?」
「うん?どこに行くってわけでもないんだけどね。」
振り返ることもなく彼は言った。
「はい?じゃあ、」
「この道を抜ければ見えるはず。」
「…何が?」
その路地を抜けると、ビルの裏の少し広い道に出た。このあたりは繁華街の外れみたいだった。会社が多い地区らしく、ほとんどのビルは消灯していて、道は薄暗く、人通りも少なかった。
「手塚さん?…わっ!」
やっと追いついた私は、急に立ち止まった彼の背中に激突した。大丈夫?と笑った手塚さんは、ちょっと辺りを見回すと、
「うん、やっぱりここで合ってるみたいだな。」
と言った。
「え、ここってどこ?」
マリさんはこの辺りのビルに用事があったとでも言うのだろうか。せわしなくきょろきょろする私に、屈んで目線を合わせた手塚さんが言った。
「あれじゃない?」
「…あれって?」
彼の指差した方へ振り返ると、薄暗い道の一角が、場違いに明るく光っているのが見えた。手塚さんが指差していたのは、地下鉄の駅の入口だった。
「…駅?」
「そう。」
私たちはその眩しいほどの光に向かって行った。
「…ここ?」
「うん。」
その入口を見上げ私は、あれ、と思った。
「あ…でも、違うよ、これ、私たちが乗って来た路線じゃない。」
階段横にある案内を指差して私は言った。
「うん。」
手塚さんはそう言うと、じゃ、まあ帰ろうか、と踵を返した。
「え?」
私はまた慌ててついていく。
「か、帰るの?」
「うん。」
「これでおしまい?」
「そう。」
振り返ることもなく歩き続けるその背中を見て、ああ、なるほど、と私は思った。
「もしかして…手塚さん?」
「何?」
平静を装う彼に、私は優しく声を掛けた。
「大丈夫、気にしない気にしない、間違えたって笑わないよ、私は。」
彼の肩を叩き私がそう言うと、
「は?」
何言ってんのと彼は笑って、いや、そろそろ帰らないとって思っただけだよ、セットアップするんだろ、これ、と言って右手のパソコンの箱を持ち上げて見せた。あ、ずっと持たせちゃってたね、私がそう詫びると、大丈夫、と言って、彼はまた歩き出した。
「…マリさんは、あの駅を使うために、道をそれてたんだ。」
元来た道を戻りながら、手塚さんは言った。
「あの駅を?」
「そう。」
「え、だって、」
うん、と手塚さんは頷いて、
「あの路線の駅への入口は、他にもある。大家さんが働いていた店に、もっと近いところもあった。」
と言った。
「うん。それもそうだし、」
「そもそも使う路線も違ってたよね。」
マリさんは私と同じ路線だった。つまり、この遠い駅まで来ても、乗るべき電車はない。
「でも、マリさんは、わざと一番遠いこの入口を使ってたんだ。」
あの日追いかけた、ワンピースの後ろ姿が浮かんだ。
「…どうして?」
そう問いかけた私に、うーん、多分だけどね、とつぶやいた彼は、
「見られたくなかったんだと思う。」
とまた訳の分からないことを言った。それでもう私は、
「何を?」
「うん、」
「誰に?」
「あ、」
「なんで?」
「え、」
「どういうこと?」
手塚さんの腕を掴み、彼に詰め寄った。江戸っ子は気が短いんじゃ!と彼を揺さぶると、ごめんごめん、いちいち驚くから面白くてさ、ちゃんと話すよ、と手塚さんは笑った。
「見られたくなかった、っていうのは、この路線を使うところを、同じ店のスタッフに、ってこと。」
大家さん、見た目によらず力強いんだから、と大袈裟に腕を押さえて見せた彼は、いいから話せ!となおも詰め寄る私の肩をぽんぽんと叩き、また歩き出すとそう話を続けた。
「どういうこと?」
うん、と手塚さんは隣の私を見て、
「大家さん、閉店間際まで働いてたって言ったよね?」
と言った。
「うん。」
「でも閉店する時間までいたわけじゃないんでしょ?」
「そう。」
「じゃあ、店の戸締りなんかをしていたのは誰?」
「えっと…。」
当時の記憶を手繰る。
「それは確か、社員さんだったね。」
「どんな人?」
「社員さんはふたりいて…ひとりは店長で独身の、まあ、おばさんだったよ。」
ふうん、と呟いて、
「もうひとりは?」
と手塚さんは聞いた。
「えっと、若い、男の人だった。あの頃…二十代半ば、いや後半くらい?そのふたりのどちらかが、戸締りしてたと思う。」
じゃあ、そっちだね、と手塚さんは頷いた。
「そっち?」
隣の手塚さんを見上げた私に、ちょっと眉を持ち上げて手塚さんは言った。
「マリさんの、彼氏。」
「…え!」
「その人がこの路線を使っていたんだろう。」
「あ…。」
「大家さんが見た、マリさんが入って行ったビルはどれも似たような造りだった。エントランス前に階段があって、大きな柱がその両側にある。実際にビルの内部に入ったんじゃなくて、その柱の陰に隠れていたんじゃないかな。」
「隠れてた?」
「仕事帰り、ふたりは店から遠いあの駅の入口で待ち合わせをしていたんだと思う。駅までの道の途中で、あとから来る彼氏を待つために、マリさんは適当なビルに隠れてたんだろう。わっ!とか驚かせるためにね。」
当時はすごく年上のお姉さん、と思っていたが、今の私はあの頃のマリさんの年齢を超えている。若いふたりがそんな関係になっていたのは、言われてみれば極々当たり前のことのように思った。
「一緒に働いてて、分かんなかったの?」
からかうように彼が言う。
「…うーん。分からなかったなあ。」
「そういうの、鈍そうだもんね。」
「いや、結構鋭い方だと思ってたんだけど。」
そうかな、手塚さんはそんな私を見て笑うと、
「…かなり鈍いと思うけどね、俺は。」
と言った。
ひとりだと、際限なく寝てしまう。
それが怖い。
やることがないなら尚更だ。
今日もまた昼近くまで眠ってしまった。
のろのろと起き出して、シャワーを浴びる。
こんなふうに暮らしてみて思ったけれど、身なりも生活も、「ちゃんとしよう」と思うから、ちゃんとするのだ。でも「ちゃんとしよう」と思わなければ、全然ちゃんとしない。当たり前のようにやって来たことが、そんなあやふやなものの上に成り立っていたことに驚く。つまり問題は、ちゃんとしていないことではなく、「ちゃんとしよう」と思えないことなのだ。
「…ヒマなんだな。」
「…。」
「あ、いや、ごめん。」
「…ううん。いいの、ほんとのことだから。」
手塚さんは手を休めることなく、私の今日の発見を聞いて笑っていた。せめて仕事の邪魔だけはしないようにしようと思うのだけど、手塚さんが何も言わないのをいいことに、ついここに来てしまう。
「…それで、何だっけ?パソコン?」
「あ、うん。これなんだけど。」
私はバッグから愛用のノートパソコンを取り出した。
「調子悪いんだけど。」
「うん。ちょっと見せて。」
定位置のモニターの山の中から手塚さんが手を伸ばしたので、はい、と渡す。開いてチェックしてくれているようだった。ああもう、パスワードくらいかけろって…ああ、これね…確かに変だな…そんな声が聞こえていたが、五分ほどして、
「ダメだね、もう。」
という声が返って来た。
「そうなの?」
「そもそも、このOSのサポートはもうすぐ終了になるぞ。」
「どういうこと?」
「まあ簡単に言えば、もう使うのをやめた方がいいってこと。」
「そうなんだ。」
確かに、何年前に買ったのか思い出せないほど使って来たように思う。ずいぶん思い出の詰まっているノートパソコンだけど、パソコンは思い出があるからって長く使うものでもないらしい。うーん、と考えていると、
「どうするの?」
と手塚さんが聞いて来た。無職の今、手痛い出費ではあるが、なければ困るものだ。どうも選択肢はないらしい、と思った。
「うん。まあ、買い替えようかな、と思う。」
そう答えた私に、
「そうか。そうだな、俺もそれがいいと思う。」
とまた声だけが返って来た。それで、分かった、ありがとう、とお礼を言って、帰ろうとソファから立ち上がった。するとまたモニターの山の中から声がした。
「…選んでやろうか?」
「え?」
「今日、客先に出るんだけど、そのあとなら空いてる。」
はい、とまた手だけを伸ばして、手塚さんが私のノートパソコンを返して来た。
「…お願いします。」
それを受け取って、私は言った。
「大家さん。」
声をかけられても一瞬、分からなかった。
「て、手塚さん。」
「うん。」
スーツ姿の手塚さんを初めて見た。何て言うか。うん。新鮮。
「じゃあ行くか。」
「はい。」
夕方、仕事が終わった手塚さんと、アキバで待ち合わせした。
「大体このあたりのやつがいいんじゃないかっていうのは考えてある。」
「ほんと?ありがとう。」
「予算的にも問題ないと思う。」
駅前の家電量販店に入り、エスカレーターに乗り込む手塚さんについて行く。
「ここ、良く来るの?」
「ん?まあ、仕事柄。」
慣れた様子で歩いて行く手塚さんの後ろ姿は、働く男、という感じがした。細身という印象だったけれど、こうして見ると、広い背中はやっぱり男の人なんだな、と思う。
「えっと…ああ、ここだな。」
目当てのメーカーを見つけた手塚さんは、振り返りもせずどんどん進んで行く。並んでいるパソコンは、私には全部同じに見えたけれど、売り場の中ほどで手塚さんは、あ、これだ、と言ってピタッと止まった。これこれ、と指差す。そして近くにいた店員を捕まえると、あれこれ質問していた。そして、
「うん、やっぱりこれでいいと思う。」
と目の前にあるノートパソコンをトントンと指で叩いて言った。
「へえ。モニターも大きいし、良さそうだね。」
私は画面に揺れる不思議な模様を眺めながら言った。見るべきはそこじゃないんだろうけど。
「大家さんの今のマシンとは比べ物にならないようなハイスペックなマシンだよ。」
「それでこの値段なの?」
「うん。今はこれだけ出せば、このくらいのものは買える。」
へえ、と頷くばかりの私に、それに、と手塚さんは続けた。
「これなら仕事でも使える。」
そう言って私を見て、ふっと笑った。
「え。でも私、」
「今は休んでるけど、いずれは戻るかも知れないでしょ。」
そう言って手塚さんは私の頭を突いた。それで、うん、そっか、と答えた私に、よし、じゃあグレーか黒か、白が可愛いかな、選んで、と言った。
帰ったらセットアップしてくれると言うので、私のおごりでご飯を食べて帰ることにした。そんなのいいよ、と彼は笑ったけれど、私にだって貯金くらいある!と粋がると、余計ご馳走になりにくい、と苦笑しながらも、じゃあ、と時々行くというイタリアンに連れて行ってくれた。リーズナブルな店を選んでくれたんだな、と思う。でもパスタがめちゃくちゃ美味しかった。
「学生時代、この近くでバイトしてたことがあったの。」
ご飯も済んで駅に向かう帰り道、ふと思い出して私はそんな話をした。
「何のバイト?」
「日本料理の店でね、着物着てやってたんだけど。」
ふうん、と手塚さんは特に興味もなさそうだった。彼もそんな時代があったんだろうか、と思い、
「手塚さんってバイトしてたことあるの?」
と聞いてみた。私は興味あります。
「あるよ。学生の頃は。」
「何してたの?」
「プログラマー。」
「そんな学生いるの!?」
「俺の周りには結構いたよ。」
へえ、学生時代の手塚さんってどんな感じだったんだろう、と思ったとき、目の端に入ったビルに見覚えがあるような気がして、私は立ち止まった。
「どうした?」
「あ。このビル。」
「ん?」
「…今思い出したんだけどさ、そのバイトしてたときにちょっと変なことがあってさ。」
大学二年生くらいのことだったろうか。私は授業が終わったあと、この近くの店でアルバイトをしていた。その頃は割とヒマだったのと、バイト先のみんなとも仲が良く楽しかったのとで、私は週に四~五日ほど出勤して、しかも閉店間際の十時過ぎまで働くという生活を送っていた。
その人は、マリさん、といった。昼間はOLさんをしていて、夜はその店でバイトをしていた人だった。店に、そういう人は何人かいた。昼間は経理をやっているの、とマリさんは言っていた。客先の電話番号も百件くらい暗記している、なんて話もしていた。気さくな人で、ずいぶん年下の私にも優しくしてくれた。マリさんも私と同じようなシフトで入っていたので、帰り道が一緒になることがちょくちょくあった。
ある日、仕事が終わって、私たちはいつものように一緒に駅に向かっていた。するとマリさんが、
「私、今日こっちだから。」
またね、と手を振って道をそれていった。いつもは駅まで私と一緒のマリさんだったが、その日は何か用事があったのかな、と思って、私も手を振って別れた。でもそこから、同じようなことが二、三度あった。
その日もマリさんは、私、こっちだから、と言って道をそれて行った。うん、またね、と手を振ったあとで私は、彼女に借りていた本を返し忘れていたことに気づいた。それで、今ならまだ間に合うだろうと、別れたばかりの彼女を追った。少し行ったところで、ワンピース姿の彼女の背中を視界に捉えた。
「あ、マリさ…」
そう声を掛けようとした時、ふいに向きを変えたその背中が、そこにあったビルの中にすっと消えて行った。
「…。」
何か見てはいけないものを見た気がして、その日私は本を返せずに帰った。次にバイトに行った時、私はマリさんの入って行ったビルの前を通ってみた。鈴木金属、と書いてあった。
それからどうしても気になって、彼女が帰りに道をそれる時、悪いとは思いつつ何度か後を付けてみた。私と別れた彼女は毎回、近くのビルに入って行く。でも入るビルはいつも違っていた。鈴木金属に入ったのはあの一回だけで、そのあとは不動産会社、食品の輸入会社、社名からは何をしてるのかは分からない会社、それからマンションに入ったのも一度だけ見たことがある。
鈴木金属、と書かれた青銅色のプレートは、あの頃よりもずいぶん古ぼけて見えた。
ふうん、と言って手塚さんは、この懐かしいビルを見上げていた。
「なんか、悪いことでもしてるんじゃないかって。それでマリさんには何も聞けなかったんだけど。」
「悪いことって?」
ビルを見上げたまま、手塚さんが言った。
「なんだろう、うん、なんか悪いこと…スパイとか?」
「そんな感じの人だったの?」
「ううん、全然。きれいで優しい普通のお姉さんだったよ。話も面白かったし。」
「じゃあ違うんじゃない?」
大家さんに見つかるスパイって、と手塚さんは周辺を眺めながら生返事だ。
「うん…まあそうだよね。…単に、何か用事があったんだろう。まあいいや、行こう。」
私がそう言って歩き出そうとすると、
「用事ねえ。鈴木金属に?」
ベアリングの会社みたいだけど、とエントランス前の数段の階段を上り、入り口横に掲げられた会社案内を読んでいた手塚さんは、ビルの中をちょっと覗いて、それから私に言った。
「大家さん?」
「うん?」
「まだ時間ある?」
「ないと思う?」
聞いただけ、と手塚さんは笑った。
まずは大家さんが働いていた店に行ってみよう、と手塚さんが言うので、私はほぼ十年ぶりになるその店に向かった。鈴木金属から歩いて十分ほどの場所にあったその店は、すでに別の店に変わっていた。
「ここ?」
「そう。でももう違う店になっちゃってるね。」
入れ替わりは激しい街だ。まだ続いているとは思っていなかったが、マンガ喫茶へと変貌を遂げ、もはやあの頃の面影もないその店を見るとやはり、何となく寂しいものはあった。
「ふうん。大家さん、ここでバイトしてたんだ。着物着て。」
手塚さんもその店を眺めながら、そう言った。
「うん。」
なんだ、ちゃんと話聞いてたんだ。
「…ちょっと見てみたかった気もするな。」
「…え?」
「うん。まあいいや、とにかくここがスタート地点だね。」
空耳だろうか。そう言うなりさっさと歩き出した手塚さんを、私は慌てて追いかけた。
「スタート地点?」
「ここから、大家さんが覚えている限りの、マリさんが立ち寄った場所を辿ってみよう。」
「あ、う、うん。」
なるべく近い順に回って、と手塚さんが言うので、私は当時の記憶を探りながら、いくつかの会社や、マンションなんかを案内して回った。最初は不動産会社、次が名前だけでは何をしているか分からない会社(ああ、ここはウェブ系の開発やってるところだね、と手塚さんが言っていたので今はもう分かる)、マンション、それと歩いていたら思い出した関西の製紙会社の支社、それから鈴木金属を過ぎて、
「あとは、食品の輸入会社かな。…確かこの辺だったと思うんだけど。」
と私がきょろきょろしていると、
「あのビルじゃない?」
と手塚さんが通りの向こう側にあるビルを指した。確かにあんな感じだった、と思い、道を渡って見てみると、覚えのある社名が書いてあった。
「うん、そうだね。ここだ。覚えてるのは、ここが最後かな。」
「うん。」
手塚さんはそう返事をすると立ち止まり、スマートフォンを取り出した。地図を見ているようだった。そして画面と見比べながら、その食品輸入会社のビルの周りをちょっと調べていたみたいだったが、ああ、ここかな、と言って、私を手招きした。
「え?」
「ついて来て。」
そう言うと彼は、ビルとビルの隙間のような細い路地をずんずんと進んで行った。
「て、手塚さん、どこに行くの?」
「うん?どこに行くってわけでもないんだけどね。」
振り返ることもなく彼は言った。
「はい?じゃあ、」
「この道を抜ければ見えるはず。」
「…何が?」
その路地を抜けると、ビルの裏の少し広い道に出た。このあたりは繁華街の外れみたいだった。会社が多い地区らしく、ほとんどのビルは消灯していて、道は薄暗く、人通りも少なかった。
「手塚さん?…わっ!」
やっと追いついた私は、急に立ち止まった彼の背中に激突した。大丈夫?と笑った手塚さんは、ちょっと辺りを見回すと、
「うん、やっぱりここで合ってるみたいだな。」
と言った。
「え、ここってどこ?」
マリさんはこの辺りのビルに用事があったとでも言うのだろうか。せわしなくきょろきょろする私に、屈んで目線を合わせた手塚さんが言った。
「あれじゃない?」
「…あれって?」
彼の指差した方へ振り返ると、薄暗い道の一角が、場違いに明るく光っているのが見えた。手塚さんが指差していたのは、地下鉄の駅の入口だった。
「…駅?」
「そう。」
私たちはその眩しいほどの光に向かって行った。
「…ここ?」
「うん。」
その入口を見上げ私は、あれ、と思った。
「あ…でも、違うよ、これ、私たちが乗って来た路線じゃない。」
階段横にある案内を指差して私は言った。
「うん。」
手塚さんはそう言うと、じゃ、まあ帰ろうか、と踵を返した。
「え?」
私はまた慌ててついていく。
「か、帰るの?」
「うん。」
「これでおしまい?」
「そう。」
振り返ることもなく歩き続けるその背中を見て、ああ、なるほど、と私は思った。
「もしかして…手塚さん?」
「何?」
平静を装う彼に、私は優しく声を掛けた。
「大丈夫、気にしない気にしない、間違えたって笑わないよ、私は。」
彼の肩を叩き私がそう言うと、
「は?」
何言ってんのと彼は笑って、いや、そろそろ帰らないとって思っただけだよ、セットアップするんだろ、これ、と言って右手のパソコンの箱を持ち上げて見せた。あ、ずっと持たせちゃってたね、私がそう詫びると、大丈夫、と言って、彼はまた歩き出した。
「…マリさんは、あの駅を使うために、道をそれてたんだ。」
元来た道を戻りながら、手塚さんは言った。
「あの駅を?」
「そう。」
「え、だって、」
うん、と手塚さんは頷いて、
「あの路線の駅への入口は、他にもある。大家さんが働いていた店に、もっと近いところもあった。」
と言った。
「うん。それもそうだし、」
「そもそも使う路線も違ってたよね。」
マリさんは私と同じ路線だった。つまり、この遠い駅まで来ても、乗るべき電車はない。
「でも、マリさんは、わざと一番遠いこの入口を使ってたんだ。」
あの日追いかけた、ワンピースの後ろ姿が浮かんだ。
「…どうして?」
そう問いかけた私に、うーん、多分だけどね、とつぶやいた彼は、
「見られたくなかったんだと思う。」
とまた訳の分からないことを言った。それでもう私は、
「何を?」
「うん、」
「誰に?」
「あ、」
「なんで?」
「え、」
「どういうこと?」
手塚さんの腕を掴み、彼に詰め寄った。江戸っ子は気が短いんじゃ!と彼を揺さぶると、ごめんごめん、いちいち驚くから面白くてさ、ちゃんと話すよ、と手塚さんは笑った。
「見られたくなかった、っていうのは、この路線を使うところを、同じ店のスタッフに、ってこと。」
大家さん、見た目によらず力強いんだから、と大袈裟に腕を押さえて見せた彼は、いいから話せ!となおも詰め寄る私の肩をぽんぽんと叩き、また歩き出すとそう話を続けた。
「どういうこと?」
うん、と手塚さんは隣の私を見て、
「大家さん、閉店間際まで働いてたって言ったよね?」
と言った。
「うん。」
「でも閉店する時間までいたわけじゃないんでしょ?」
「そう。」
「じゃあ、店の戸締りなんかをしていたのは誰?」
「えっと…。」
当時の記憶を手繰る。
「それは確か、社員さんだったね。」
「どんな人?」
「社員さんはふたりいて…ひとりは店長で独身の、まあ、おばさんだったよ。」
ふうん、と呟いて、
「もうひとりは?」
と手塚さんは聞いた。
「えっと、若い、男の人だった。あの頃…二十代半ば、いや後半くらい?そのふたりのどちらかが、戸締りしてたと思う。」
じゃあ、そっちだね、と手塚さんは頷いた。
「そっち?」
隣の手塚さんを見上げた私に、ちょっと眉を持ち上げて手塚さんは言った。
「マリさんの、彼氏。」
「…え!」
「その人がこの路線を使っていたんだろう。」
「あ…。」
「大家さんが見た、マリさんが入って行ったビルはどれも似たような造りだった。エントランス前に階段があって、大きな柱がその両側にある。実際にビルの内部に入ったんじゃなくて、その柱の陰に隠れていたんじゃないかな。」
「隠れてた?」
「仕事帰り、ふたりは店から遠いあの駅の入口で待ち合わせをしていたんだと思う。駅までの道の途中で、あとから来る彼氏を待つために、マリさんは適当なビルに隠れてたんだろう。わっ!とか驚かせるためにね。」
当時はすごく年上のお姉さん、と思っていたが、今の私はあの頃のマリさんの年齢を超えている。若いふたりがそんな関係になっていたのは、言われてみれば極々当たり前のことのように思った。
「一緒に働いてて、分かんなかったの?」
からかうように彼が言う。
「…うーん。分からなかったなあ。」
「そういうの、鈍そうだもんね。」
「いや、結構鋭い方だと思ってたんだけど。」
そうかな、手塚さんはそんな私を見て笑うと、
「…かなり鈍いと思うけどね、俺は。」
と言った。