手塚さんが珍しく寝込んでいる。

 今日も三階に下りて来たら、具合悪そうな手塚さんが出て来た。
 風邪だそうだ。
 昨日の朝、病院には行ったとのこと。
 食欲がなく、昨日の昼に少し食べたきり、ほとんど何も口にしてない、とぼそぼそ手塚さんは言った。薬を飲んで寝ていたらしい。何か作るよ、と言うと、今何も食べられる気がしない、と言う。少しでもいいから食べて、それでまた薬飲んだら?と言うと、分かった、そうするよ、と言ったので、私は買い物に出ることにした。あ、俺の財布持ってって、と手塚さんは言ったけど、私も一緒に食べるからいいよ、と言うと、ん、ありがと、と彼は言った。
 何にしようかな、と仕事スペースの小さなキッチンを覗いてメニューを考えていた。ふと見ると、作り付けの棚の側面のフックに、キャンバス地のトートバッグが掛けてあった。あれ、こんなのあったかな、と思ったがちょうどいいので、これお買い物に使っていい?と手塚さんに聞くと、ああ、そのためのものだから、と言う。それから彼は目をこすり、じゃあ、ごめん、俺は寝てる、とまた奥に引っ込んでしまった。
 それでそのバッグを肩にかけて、私は買い物に出た。

 手塚さんが食べられそうなものを考えて、煮込みうどんを作ることにした。くたくたに野菜を煮込んで、甘いお揚げを添える。これなら少しは食べられるだろう。大根に白菜、きのこ類なんかを買って来た。
 ここは、手塚さんが仕事場として使っているスペースにあるキッチンだ。居住スペースには、私は見たことがないが、もう少しちゃんとしたキッチンがあるらしい。でもここのキッチンでも、簡単な食事を作るなら十分な設備があった。私は鍋を出してきて、お湯を沸かしている間に野菜を切ることにした。
 「えっと、ここにナイフがあったはず。」
 シンク下の扉を開けると、包丁を収納するホルダーがある。
 「ん?あれ?」
 ナイフを取り出そうとして、見覚えのない包丁があることに気づいた。
 「こんなのあったかな?」
 柄の細い、セラミック製の包丁だった。ここには、ペティナイフのような、小さなものしかなかったような気がするけど。
 「…まあ、ちょうどいいや、借りよう。」
 まな板も出してきて、野菜を切る。お、すごく使いやすい。私の手にちょうどいいサイズの包丁で、すごく使いやすかった。

 野菜も柔らかく煮えてきたので、私は深めの皿を探して棚の扉を開けた。
 「うーん、あ、これでいいか。」
 スープボウルがあったので取り出そうとしたとき、奥の方に赤いラインの入ったマグカップがひとつ、ぽつんと置かれているのが目に入った。
 以前私が、グレーのラインの入ったものとセットで買ってきたものだ。近所の雑貨屋さんで見つけた。可愛い色合いだったので、手塚さんの部屋でお茶を飲む用に買ってきたのだった。でもグレーのラインの方は、手塚さんが仕事中にうっかり割ってしまった。悪い、と申し訳なさそうにしてたけど、高価なものでもないし、いつかは壊れるものだし、しょうがないよ、大丈夫、と言っておいた。
 「こんなところにあったのね。」
 相方は割れてしまったけど、時々はこの、赤いラインのカップも使ってあげよう、と思った。

 手塚さんは、結構たくさん食べてくれた。あと一回薬飲んで寝たら、多分もう大丈夫だと思う、とさっきよりは力のある声で言っていたので、私は一安心した。じゃあ、これ片付けて、ヒマだから軽くその辺掃除してから帰るよ、と言うと、うん、ありがとう、と言って、彼はまた奥に引っ込んで行った。

 食器を下げて、シンクで洗っていた。すべて洗い終えて、これでよし、全部片付いたかな、と周りを見回していると、換気扇の下にある窓の枠に、何かが乗っているのが見えた。
 「ん?なんだこれ?」
 近づいてみると、小さな人形のようだった。
 「…レゴの人形?」
 カラフルなブロックの街で暮らしている、あの人たちだ。手にとって見てみる。眼鏡をかけたサラリーマンの人形だった。手に何かを持っている。デフォルメされた小さなパーツなので分かりづらいが、どうもテイクアウトのコーヒーのカップのようだった。
 「手塚さんっぽい。」
 早く元気になれよ、と声をかけて窓枠に戻す。
 あ、そうだ、新しいコーヒー豆出しておこう。
 以前、セールで買い溜めしたコーヒー豆をどこかに置かせて欲しいと言うと、キッチンの上の棚は全然使ってないからいいよ、と言われた。背は小さい方でもない私だけど棚には届かなかったので、手塚さんにしまうのを手伝ってもらった。
 「私が乗れる椅子なんかあったかな。」
 こっそり手塚さんが仕事で使っているデスクチェアを持って来ちゃおうかな、と思ったとき、冷蔵庫と壁の隙間に何かが置いてあることに気づいた。引っ張り出してみると、折りたたみ式の踏み台だった。
 「お、いいものがあった。」
 前からこんなのあったかな、と思ったけれど、思い出せなかった。広げて乗ってみると、私でも十分、コーヒー豆がしまってある棚に手が届いた。一袋手に取り、踏み台を元の場所に返すと、私は部屋に戻った。そして、コーヒーメーカーの横に置いてあるビンに、コーヒー豆を補充した。

 「やっぱり新しい掃除機はいいなあ。」
 自走式で軽く進み、小回りも利く、隙間の掃除もラクに出来るこの掃除機は、前のはもう古くなったから、と最近手塚さんが買い替えたものだ。使いやすいスタンド式なのもいい。好きな色選んでいいよ、と手塚さんがネットでカラーバリエーションを見せてくれたので、少し緑がかった水色を選ばせてもらった。本当にこの色でいいの?黒にしとく?と一応聞いてみたが、それでいい、と言う。届いた掃除機を、事務所スペースの一角においてくれた。手塚さんの寝ている部屋までは聞こえないだろうが、私は静音モードで掃除機をかけていた。
 何かのコードに引っ掛けても嫌なので、デスク回りは慎重に、でも深入りしないようにさっと終わらせた。ソファの下、テーブルの下、テレビの前、と来て、テレビの横のペン立てがふと目に入った。以前私が拾ってきた「いい棒」はそのままだった。「いい石」も横に並べてある。

 コーヒーが飲みたくなったので、休憩することにした。テレビ前のソファに座る。ここからいつも、モニターの山の中にいる手塚さんを見てる。今日は主は不在だ。
 元婚約者のところに行った日から、特に私たちに進展はない。あの日手を繋いでくれたのは、私を励ますためだったのかも知れないな、と今では思っている。自分では分からなかったけれど、思っていることが全部顔に出て…
 「あれ、これチョコレート?」
 テーブルの上の箱に、可愛いチョコレートが入っていた。パッケージは開けてあるが、中身は減っていないようだ。誰かにもらったのかな。手塚さんは甘いものそんなに好きじゃないし、一つもらっちゃおう。ブルーの包み紙をつまみ上げて、チョコレートを取り出す。口に放り込むと、滑らかに溶けていく甘い香りが広がった。
 「あ、これ美味しいやつだ。」
 手塚さんは甘いものそんなに好きじゃないし、もう一つもらっちゃおう。
 それから、よし、続きやるぞ、と私は立ち上がった。

 次は水回りの掃除をすることにした。
 ここの洗面所はほとんど使っていないようで、特に汚れてもいなかった。鏡もきれいなままだ。軽く拭くくらいでいいか、と周囲を眺めていて、ふと先日のことを思い出した。
 どうしてそんな話になったのかは覚えていないが、私は手塚さんに、友人が彼氏の浮気を見破った話をしていた。友人が、彼氏の家の洗面台下の棚を開けた時だ。シャンプーの替えを探していたのだが、奥の方に、洗顔フォームや化粧水などがひとまとめに入ったかごを見つけた。前の彼女のものかな、と思ったけれど、その化粧水は割と最近発売されたものだった。何年も前のものではない。でもいったん何も言わずに扉を閉めた。一か月後くらいにまた見てみたら、使ったような形跡があったのだそうだ。

 「…。」

 多分、たいしたものは入っていないはず。
 ここは来客用だと思うし。
 おそらく空っぽといったところだろう。うん。
 白い化粧板のその扉を眺めて私はしばらく迷っていたが、思い切って開けてみることにした。
 すると中に、「大家さんへ」と書かれたメモの貼られた紙袋がひとつ、置かれていた。
 ひい!としりもちをつく。
 とっさに誰かに見られてないか辺りを見回した。
 こういうときってこんな行動に出るのか、とまだドキドキしている胸を押さえながら思った。
 恐る恐るその紙袋を取り出す。
 メモの裏に何か書いてあるようだ。取り外して裏返してみた。

 「大家さんへ

 ここに遊びに来る女性は今のところいません。
 大家さん以外には。
 それはともかく、以前壊したマグカップのお詫び。
 また美味しいコーヒーを飲ませてください。」

 と書いてあった。

 紙袋の中を見ると、きれいに包装された箱が入っていた。そっと取り出して開けてみる。
 私が買ってきたものとは違うけど、オレンジのラインと青いライン、似たデザインのマグカップがふたつ入っていた。手塚さんがそんなことするなんて思わなかったから、ノーガードのところに右ストレートをもらったような衝撃だった。でも、似たものを探してくれた気遣いが嬉しかった。
 「あ、でもこんなとこ覗いたのバレた…。」
 まあ、いいや。
 手塚さんが元気になったら、これで一緒にコーヒーを飲もう。