手塚さんの部屋はいつも静かだ。

 大通りから一本中に入った路地に面してこの古いビルは建っている。昼間でもあまり車は通らない。通る用事などないからだ。土日などはもっと静かだ。ビルのあるここのブロックに関して言えば、この界隈の住人しか通らない。
 このビルは、私の祖父母が建てたものだ。ワンフロアにひとつのテナントしか入らない、小さなビルだ。五階建てだが、四階と五階は祖父母の居住スペースとして作られたため、貸し出せるのは一階から三階だけだ。最初の頃は靴の卸問屋の会社が丸ごと借りてくれていたらしい。私が子どもの頃は、一階には服を販売する会社が入っていたと思う。ビニールのかかったコートのようなものがたくさん下がったラックが道端に出ていたり、段ボール箱をどんどんトラックに積んだりしているのを見たことがある。二階には税理士事務所が入っていた。税も理も士も読めたけれど、それが何のことか当時はわからなかった。その頃三階は、人が住むスペースとして使われていたようだ。特に用途を限定して貸し出していたわけではなかったようで、コンクリ打ちっぱなし(と言えばカッコいいが、ただ内装工事が施されていない状態)のがらーんとした空間に、男性が二人で暮らしていたそうだ。

 現在、この三階に住んでいるのが、手塚さんだ。

 仕事場兼居住スペースとして利用しているらしい。いつからそうなのか分からないが、今はこのふたつの空間は壁で仕切られている。居住スペースの玄関を出るとそこが彼の職場であり、職場からドア一枚開ければ自宅へ戻れるというわけだ。私は居住スペースは見たことがない。私の知っている手塚さんはいつも、仕事場である相変わらずコンクリ打ちっぱなし(と言えばカッコいいが、ただ内装工事が施されていない状態)の空間で、機材やモニターの山に埋もれてキーボードを叩いている。薄暗く、ひんやりしていて、私はここに来るたびに「犯人が最後に逃げ込む工事中のビルの一室みたいだな」と思う。


 「…大家さんって、勝手に入居者の郵便物取って来ていいんだっけ?」
 キーボードを叩く音が止まり、モニターの山の中から、彼の声だけが返って来た。
 「まあまあ。お手伝いだよ。駄目?」
 
 「いや、まあ…いいけどね、別に。」
 小さくため息をつくと、彼は再びキーボードを叩き始めた。

 「…わあ、久乃からだ。珍しいな!何年振り?」
 手塚さんの郵便物を配達するついでに、自分のポストも覗いてきた。ダイレクトメールに混じって、旧友からの葉書が届いていた。
 「…相変わらず幸せそうだなあ。いっつも勝ち組だったもんなあ。」
 ちゃんと字を習った人の美しい文字は、久乃という人そのものという印象だった。それらが流れるように並べられたこの葉書は私に、あの頃のそんな憧れを思い起こさせた。
 「友達?」
 「うん。高校の時の。おととし、いや三年前だったかな、結婚して、千葉に家を建ててね…。」
 「…悲しくなるなら、話さなくていいよ。」
 「…ううん、いいの…。子どもが出来たんだって…。へへ、つわりで動けないって…。」
 「だからいいって。」
 休憩するか、と言って席を立った手塚さんは、私の分のコーヒーも淹れて持って来てくれた。そして、はい、とソファの前のテーブルに私のカップを置くと、まあこれでも飲んで落ち着いて、と笑った。いつもすみません、と私はカップを手に取った。分かりやすい人だな、とまた笑った彼は、テーブルに投げ出されたその葉書に目を遣り、あれ?と言った。
 「これ、見てもいい?」
 彼は、久乃から来た葉書をつまみあげた。
 「ん?ああ、どうぞ。」
 くるくるとひっくり返しながら葉書を眺めていた彼だったが、
 「…千葉って言った?」
 顔を上げると私にそう聞いた。
 「え?何が?」
 「この、久乃さん?だっけ、家を建てた場所。」
 「うん、そうだよ。差出人の住所にあるでしょ。」
 「妊娠中か…実家は?」
 「八王子。」
 「仲良かったの?この人と。」
 「私?うーん。」
 こんなふうに葉書をもらうくらいだからもちろん友人ではあったのだけど、特別仲が良かったというわけではない。仲良くしてたグループの中のひとり、っていうくらいの距離感かな、と私は答えた。
 「親友って感じではない。」
 「まあ、そうだね、うん。連絡が来たのも久しぶりだし。」
 「ふうん…。」
 「あ、でも、そうだ、いつだったかな…。私がここに戻って来るちょっと前だったかな。」
 そう言えば少し前にも、久乃の名前を聞いたことを思い出した。
 「うん。」
 「高校の頃の、別の友達から電話があって。みんなで集まろうって話だったんだけど。」
 「うん。」
 「その時、久乃の旦那さんに会ったって話をしてたな。会社帰りに偶然会ったんだって。」
 「へえ。偶然。東京で?」
 「うん。そうみたいだね。仕事はこっちだから。それでね、」
 変なこと聞かれたんだよねえ。電話口でその子は言った。
 「変なこと。」
 「最近、変わったことはなかったですか、とかそんなようなこと。」
 「変わったこと?その旦那さんに会ったっていう友達に、ってこと?」
 「分かんなかったから、その子もそう聞いたんだって。私ですか?って。」
 「そしたら?」
 「すみません、なければいいんです、ってさっと行っちゃったみたいで。」
 「なるほど…。」
 そう言って手塚さんはなぜか、それきり黙り込んでしまった。手塚さん、手塚さーん、と呼んでも返事はない。カップを持ち上げた手もそのままに、何事か考え込んでいるようだった。もう。やっぱり変わってるな。彼と出会ってまだ三か月ほどだけど、読めない人だな、と思う。それでヒマになった私は、止まってしまった手塚さんに代わり、彼宛の郵便物をまとめて彼のデスクに置きに行こうと立ち上がった。
 「わ!」
 「何!」
 テーブルに膝をぶつけ、バランスを崩して倒れた私は、手にした郵便物を床にぶちまけた。
 「…何してんの。」
 「すみません…。」
 もう、ほんと変わってんな大家さん、と言いながら手塚さんは私を立たせてくれた。そして言った。
 「大家さん。」
 「うん?」
 「連絡取れる?久乃さんに。」

 スマートフォンのアドレス帳を見てみたら、久乃のページにはメールアドレスだけが登録されていた。電話番号も知っているつもりでいたけど、そういえば電話をかけたことはなかった。LINEも知っているようなつもりでいたけど、そういえばやり取りしたことはなかった。それで、かろうじて知っていたそのアドレスにメールを送ってみた。
 「あれ?…もうこのアドレス使ってないみたいだ。戻って来ちゃった。」
 「ふうん。」
 そう言うと手塚さんはまたしばらく葉書を眺めてから、
 「他の人にも聞いてみて。その仲良かったグループの。」
 と言った。
 「何を?」
 「同じような葉書が来たか。」
 「うん…なんで?」
 そう言う私に彼は、まあいいから、結果分かったら教えて、と言ってモニターの山の中に戻り、また仕事を始めてしまった。なんで、なんでなの手塚さん、と呼びかけても返事はない。もう。聞こえてるくせに。
 それで、面倒だなあと思いつつ、私は連絡がつく限りの人に連絡してみた。

 「…手塚さん?」
 「ん?」
 「来てる人と来てない人がいた。」
 「何が?」
 「…手塚さんが聞けって言わなかった?」
 私の声に怒りが滲み出ていたのだろうか、
 「あ、ああ。葉書ね。うん、そうか。…誰に来てた?」
 と苦笑しながらモニターの山から出て来た手塚さんは、よいしょ、と私の隣に座った。
 それで私は、葉書が届いていたメンバー三人の名前を挙げた。
 「その人たちは、久乃さんとすごく仲が良かった人たち?」
 「うーん、いや、そこまででもないと思う。三人とも、私と同じくらいかな。」
 「久乃さんが特に仲良くしていたような人には来てなかったんじゃない?」
 「うん。どうして分かったの?そうなんだよねえ。妊娠のことも知らなかったみたい。」
 私がそう言うと、手塚さんは、なるほどね、とつぶやいて、ソファの背もたれに体を預けた。そして言った。
 「…よし。」
 「ん?」
 「ドライブがてら、行ってみるか。」
 「え?どこに?」
 「千葉。」
 彼はテーブルの上に置きっぱなしだった久乃からの葉書をつまみ上げ、これこれ、と振って見せた。
 「え?」
 驚く私に構わず彼は続けた。
 「明日は土曜日だな。この人の旦那さんのこと、知ってる?」
 「え?あ、ま、まあ。…いやいや、じゃなくて、って言うかなんで?」
 「面識あるってこと?」
 「あ、あるって…まあ結婚式で会ったくらいだけど。」
 まあそんなもんか、頷いた手塚さんは、どんな人か知ってる?この旦那さん、と私の疑問に答える気はゼロのようだ。多分だけど、ドSなんだろう。私は観念した。
 「…確かどっかの省庁に勤めてるんだよ。」
 「役人か。どこの?」
 「えっと、…大蔵省?」
 「…もうないから。」
 「じ、冗談だし?」
 「ですよね。」
  肩を震わせる彼に、私はもう一度尋ねてみた。
 「でも、なんで?なんで久乃のところに行くのよ?」
 「まあ、ちょっと話を聞いてみるだけ。」
 とやっと答えた彼は、手にした葉書をまた眺めた。
 「話って、なんの話?」
 ん、と顔を上げ、はい、と手塚さんはその葉書を私の手のひらに乗せて言った。
 「那覇だよ、消印が。」

 このビルの裏手には、割と広めの駐車スペースがあった。これのお陰でこんなボロビルでも今まで入居者が途切れずにいる、と母が言っていた。そしてそれは今でもそうだ。
 ビルの一、二階に営業事務所を構えている医療機器メーカーの車両に混じり、手塚さんの古いワーゲンもそこに停めてあった。翌朝、彼の車で私たちは千葉方面へ向かっていた。手塚さんの車に乗せてもらうのは初めてだ。
 「急に訪ねて大丈夫かな。久乃も具合悪いみたいだし。迷惑じゃないかな。」
 私は運転している手塚さんの横顔に(ちょっとドキドキしながら)そう問いかけた。大丈夫だよ、と彼は(そんな私の視線にも気づかず)答えて、そして、そうだ、あと絶対に旦那さんが出て来るからさ、と前を向いたまま言い、
 「旦那さんが出てきたら、久乃の友人です、ずっと連絡が取れないので来てみたんですが、って言ってみて。」
 と私を見た。
 「連絡が取れない?どうして?」
 「取れなかったじゃん。」
 「う、まあ、そうだけど。」
 メールが送れなかったからって、わざわざ家まで行くか?はいそうですかってなるか?と首を捻る私に、でさ、と手塚さんはまた私を見ると、ちょっと不思議なことを言った。
 「そう言いながら、疑り深そうにじろじろ旦那さんを眺めてみて。」
 「はあ?疑り深そうに?なんで?」
 「こう、胡散臭そうな感じで。」
 と実演までして見せた。
 「どうして!?そんなことしたら、怒って帰れって言われるでしょ。」
 そう言った私に、はははと笑った彼は、
 「いや、入れてくれると思う。むしろ積極的にね。」
 と言った。
 「本当!?」
 本当本当、と手塚さんは何だか楽しそうだった。そしてやっぱり、それ以上のことは教えてくれないのだった。

 私たちの住んでいるビルは、東京の東側の地域にある。もう海に近い、大きな川沿いの街だ。ここからだと千葉方面へのアクセスは割といい。出発前にスマートフォンで地図を見ていた手塚さんは、一時間ちょっとだな、と言っていた。千葉市の中心地から車で三十分ほど行った住宅街に、葉書の住所はあった。本当に一時間と十五分ほどで、私たちはその家に到着した。
 「り、立派な家だなあ。」
 「ああ。」
 これが同級生が建てた家か。考えても仕方ないと思いつつも、実物を目にしたこの敗北感は凄まじいものがあった。私なんか…うう、こんなところまで来て、何しようとしてるんだろう、そんなヒマあったら仕事でも探…
 「大家さん?」
 「…え?」
 「大体分かるから聞かないけど、そんなこと考えてる場合じゃないから。」 
 そう言って笑った手塚さんは表札を確かめて、ここで間違いないね、じゃあ行きますか、と言った。インターフォンを指差して、ジェスチャーで押せ押せと私に言う。やっぱり楽しそうな手塚さんを横目に、ボタンへ指を伸ばしながら、わけも分からずここまでついて来て、わけも分からずインターフォンを押そうとしている自分が急におかしくなって来た。手塚さんと居ると、良く分からないけどまあ大丈夫だろう、という気持ちになってしまう。
 「うん。」
 私の指が、おしゃれで多分最新式の高そうなそのインターフォンのボタンを押した。
 家の中で、チャイムが鳴るのが聞こえた。その音まで涼やかだ。少しして、はい、とスピーカーから応答があった。旦那さんのようだった。インターフォンのカメラの赤いランプが点っていた。それで私はカメラに顔を近づけ、突然すみません、久乃の友人なのですが、と言うと、え?という声がして、ピッと通話が切られたようだった。中で人が歩く気配があり、数秒後にがちゃりと玄関のドアが開いた。
 「あ、すみませ」
 「久乃の…?」
 玄関から覗いたその顔に、かすかに見覚えがあった。眉間にしわを寄せ、怪訝そうな表情をしてはいるが、確かにあの美しい花嫁の隣にいた人だ。あの日の久乃の、きらめくような笑顔が浮かんだ。
 「あ、はい、突然すみません。高校時代の友人なのですが。」
 「…はい。」
 そう小さな声で答えた旦那さんは少し、やつれているようにも見えた。体調でも悪いのだろうか。久乃の看病で、疲れているんじゃないだろうか。手塚さん、だから言ったじゃない。こんな人を前に、私に何をさせようとしているの?そっと手塚さんを見ると、彼はちょっと眉を持ち上げて見せた。いいからやれ、ということなんだろう。分かりましたよ、やればいいんでしょ。私は鼻から大きく息を吸い込むと、旦那さんの方へ向き直った。
 「…実は、ですね、あの、数日というか、数週間前からですね、久乃に連絡を取ろうとしているんですが。ちょっと大事な用がありまして。はい。でも、全然連絡がつかないもので。みんなで心配していまして。…それで、私が代表で様子を見て来るということになったんですが…。」
 「…。」
 「え…っと、それでですね、ああ、メールもしてみたんですよ。でも戻って来てしまって!アドレス変えたのかな?変えたんですよね。あれ、連絡あったっけな…。」
 「…。」
 旦那さんは何も言わず、じっと私の話を聞いている。それで、私は言った。
 「あのー…。久乃は?」
 そう言いながら、私は手塚さんの指示通り、旦那さんをじろじろ眺めてみた。胡散臭そうに、上から下まで不躾に眺めまわしてみた。部屋の奥の方を覗くような素振りもしてみた。こんな感じでどうかな?と後ろにいる手塚さんに視線を送ると、いつの間にかワイヤレスのイヤフォンを耳にはめた手塚さんは、それを右手で押さえながら、はい、ええ、居ないようですね、はい、連絡してみます…とぶつぶつ言っていた。連絡?ってどこに?
 すると突然、それを見た久乃の旦那さんが叫んだ。
 「連絡する!?やめてくださいよ、何もしてないですよ!疑うんならどうぞ調べてください!入って!早く!入って!」

 広々とした家の中はきれいに片付いていた。キッチンとリビングが一続きの、観葉植物や低い棚なんかで緩やかに区切られた、テレビや雑誌でしか見たことがないような素敵な部屋だった。思わずため息が出た。庭に面した大きな窓からは、レースのカーテン越しでも陽射しが室内に溢れていた。
 「どうぞ。」
 そう勧められて、私たちはこれまた高そうなソファに並んで座った。旦那さんはキッチンに向かい、お茶を淹れてくれているようだった。私はまだきょろきょろと室内を見回していた。
 「んん。」
 隣の手塚さんが小さく咳払いをした。笑いをこらえているようだった。そんな手塚さんをちょっと睨んでから、私は姿勢を正した。改めて室内をそっと見回す。本当に素敵な家だな。でも。何だろう。…なんというか、生活感があまりない感じがした。生活臭がない、というか。それに、片付いているんだけれど、くすんでいるというか。
 「お待たせして。」
 旦那さんがお茶を運んで来てくれた。玄関では取り乱した旦那さんだったが、あのあとすぐに落ち着いて、私たちをリビングに通してくれた。
 「いえ。」
 私たちの前にお茶が置かれるのを待って、手塚さんは、
 「急にお伺いしてすみません。」
 と切り出した。
 「…はい。」
 湯呑を運んで来たトレーを傍らに置き、旦那さんはそう答えた。
 「実は、少々お聞きしたいことがありまして。」
 そう言った手塚さんの顔を、旦那さんはじっと見つめた。
 「…聞きたいこと、ですか。」
 その表情から感情を読み取ることは出来なかった。
 「ええ。突然こんな話、失礼は承知の上なのですが。」
 仕事モード、とでも言うのだろうか。こんなハキハキ喋る手塚さんを初めて見た。こんな手塚さんもカッコい…
 「…何でしょう。」
 旦那さんの低く抑えた声に、はっと我に返る。
 はい、とちょっと視線を落とした手塚さんは、ふうっと小さく息を吐き、それから真っ直ぐに旦那さんを見て、言った。
 「奥さん、出て行かれたんじゃないですか?」
 旦那さんの目がぐっと見開かれた。
 「え?」
 「え…。え?」
 手塚さんを二度見してしまった私を、彼の肘が突いた。
 「子どもを欲しがっている奥さんにあなたが、子どもは要らないって言ったんですよね?」
 「ええっ?」
 私はまた驚いて手塚さんを見てしまった。
 「違いますか?」
 静かな声で続ける手塚さんを、身動きもせず見つめていた旦那さんだったが、
 「はあ…ああ、そういうことですか…久乃から聞いたんですか…。」
 とつぶやくようにそう言うと、ソファに深く身体を埋め、ゆっくりと両手で顔を覆った。
 「…え?」
 と、もうしっかり手塚さんに聞いてしまっている私に苦笑した彼は、うるせえ、と口パクで答えた。

 「…忙しくなりまして。役職についたもので。…いや、それほどでもないです、でも役職が人を育てるようなところがありますよね。私もやっと様になって来たくらいで。」
 しばらくそのままの姿勢でいた旦那さんは、やっと身体を起こし、ゆるゆると自分の湯呑に手を伸ばした。もうぬるくなっているだろうお茶を一口飲むと、そんなふうに話し出した。そしてふと私を見ると、
 「あの…こちら、ご主人ですか?失礼ですが、歳も私と同じくらいかと。」
 と言った。こちら、が手塚さんを差していることに気づいたのは、ええ、おそらく、と彼が返事をしたあとだった。
 「…でしたら、分かっていただけると思うんですが。右も左も分からず必死で走り回っていた頃が過ぎて、やっと自分で仕事が出来るようになって来た、というか。仕事が、面白くなって来る頃だと思うんですよね、我々くらいの年代は。」
 「…ですね。」
 かけらも同意していなさそうだったが、久乃の旦那さんはそんな手塚さんを特に気にする様子もなく話を続けた。
 「久乃には分かってもらえなかったのかな。ご存じだとは思いますが、彼女、結婚してすぐに仕事を辞めて、家に入ってくれたもので。仕事のことは、あまり…だったのかな。」
 そう言って目を閉じ、首を振った。
 「はあ。」
 「私の仕事が落ち着いてからでいいだろう、ってことだったんです。私だって子どもが欲しくないって言ったわけじゃないんです。少し待ってくれ、落ち着くまで待ってくれ、ってことだったんです。大事な時期だったので、仕事に集中したかったんですがね。こんな状態で、父親になる準備なんか出来ませんよ。それは久乃にとっても困ることでしょう?」
 手塚さんがどうしてこのことを知ったのかは分からなかったが、久乃に何があったのか、は、なんとなく分かってきた。旦那さんの話が一段落したのを見て、手塚さんが言った。
 「もう、…三カ月近くになりますか。」
 「…え?」
 「久乃さんが出て行ってから。」
 「あ…。ああ、もうそんなになりますね…。」
 三カ月?そんなに前のことなの?今は何も発言しない方がいいことには私も気づいていたので口には出さなかったが、内心とてもびっくりした。
 「奥さんは…ここからちょっと遠い場所にいるようです。住んでるのが、あ、勤務先かも知れないですが、そのあたりというのは、分かっています。」
 そう続けた手塚さんに、旦那さんは驚いたような顔をして、
 「…勤務先?」
 と聞いた。ええ、と頷いた彼は、
 「もう三か月近く経つんでしょう?ずっとそこにいたのかは分かりませんが、バイトくらいしてるのでは。」
 「どこなんです?そこは。」
 身を乗り出して旦那さんは手塚さんに詰め寄った。
 「僕の口からは。」
 手塚さんはそう答え、首を振った。
 はあっ、と大きくため息をついた久乃の旦那さんは、またソファに沈み込んだ。

 最初のうちは、連絡も取れたんです、と旦那さんは言った。しばらく考えたいから放っておいてくれ、と久乃には言われたのだそうだ。実家にいるけど、両親とも話し合っているから、と。両親もすごく怒っているので、今は来ない方がいい、と。
 「…それで本当に放っておいたんですか?」
 私は思わず横から口を挟んだ。
 「だって、こじらせてもいけないと思って。それに、忙しかったんです。昇進早々にしくじるわけにもいかないと、私も必死だったんですよ。」
 旦那さんは語気を荒げた。でもさすがに気になって、しばらくして、そっと八王子の実家を覗きに行ってみたのだそうだ。でも、人の気配がなかった。通りかかった近所の人に聞いてみると、ああ、ご夫婦で旅行中ですよ、ひと月くらい海外に行っているみたいです、と教えてくれた。
 「よく教えてくれましたね。泥棒かも知れないのに。」
 手塚さんが言った。
 「名刺を出したら教えてくれました。」
 旦那さんは、当たり前でしょう?とでも言いたげな顔だ。なるほど、と手塚さんは頷いて見せた。
 「それでまた久乃に連絡を取ってみましたが、その頃にはもう返信もくれなくて…。私も、なんていうか、疲れてしまったんですかね。彼女が私の立場を理解してくれないことにも、苛立っていました。夫の大事なときに、こんなに長期間家を空けるなんて考えられませんよね?彼女のそういう無責任さにも、腹が立っていました。そうこうしているうちに、この生活にも慣れて来てしまって…。でも、時々は連絡していたんです。私の立場も考えてくれ、とにかく話し合いの席についてくれ、と。このままでは心証が悪い、それでは君も困るだろう、と…。」
 だから戻って来てくれ、なのか。私はカーテンの揺れる窓の方を見遣った。レースの白いカーテンに、ベールをかけた久乃の柔らかな笑顔が重なった。綺麗だったな、久乃。本当に幸せそうに見えた。子ども、欲しかったんだ。この広い部屋でひとり、何を考えていたんだろうな。私はそっと唇を噛んだ。
 「…落ち着く日なんて来るんでしょうか。」
 ふいに隣から聞こえた手塚さんの声に、私はあの日の記憶から今へ戻って来た。
 「…え?」
 久乃の旦那さんも、そう言って眉を上げた。
 「子どもは仕事が落ち着いてからでいいだろう、と先ほどおっしゃいましたが。」
 「ああ…ええ。」
 旦那さんはきょとんとした顔で頷いた。
 「僕たちが久乃さんから話を聞いてやって来たとあなたは思った。それなのに、久乃は元気ですか?どんな様子なんですか?という類のことは一切聞いてません。」
 それは責めるような口調ではなく、淡々と話すそのトーンはまるでひとりごとのように聞こえた。
 「いや、それは、私が何か疑われているのかと驚いたからで。」
 何を言い出すんだ、と困ったような笑顔でそう首を振る旦那さんに、
 「久乃さんが居る場所を知っている、と僕が言うまで、久乃は今どこに居るんですか、ということすら聞かなかった。」
 と手塚さんは重ねた。
 「いや、だから、それは…。」
 「そのあとあなたの口から出て来るのは、自分の話ばかりです。自分の、仕事の話ばかりです。」
 貼り付いたような笑顔で手塚さんを見ていた久乃の旦那さんの目から、みるみる力が消えて行くのが分かった。またも項垂れたその人に、静かな声で手塚さんは続けた。
 「父親も、同じなのでは。」
 「…え?」
 「役職が人を育てるって言いましたよね。」
 「あ、ええ…。」
 「父親になったから、父親になって行くのでは。」
 そう言ってから、まあ、僕にも子どもは居ないので分かりませんが、と聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で手塚さんはそう付け足した。久乃の旦那さんは、何かを言いかけて、やめた。しばらく待ってみたが、もう何も言うことは、言えることは、なさそうだった。手塚さんが腕時計をちらりと見た。それから私を見て、小さく頷いた。それで私たちは席を立った。
 それでも久乃の旦那さんは立ち上がり、私たちを玄関先まで見送ってくれた。そして、突然訪ねて来て失礼いたしました、おおや…いや、妻が気にしていたもので、と手塚さんが詫びて頭を下げると、いや、いいんです、と力なく答えた。その顔には、深い疲労や悲しみが浮かんでいるように見えた。もう一度頭を下げ、私たちは久乃の家をあとにした。
 「…あ、手塚さん、やっぱりちょっと待って。」
 車を停めたコインパーキングへ向かって歩き出した手塚さんに、私はそう声をかけた。うん、と手塚さんは立ち止まり、行って来な、と後ろに目を遣った。私は玄関まで戻ると、まだそこに立ち尽くしている旦那さんに言った。
 「私が、久乃に連絡してみます。」
 「…え?」
 「あなたと話すことは出来ないか、久乃に聞いてみます。応えてくれるか、約束は出来ないけど。」
 私がそう言うと、驚いたように私を見つめていた旦那さんはみるみる瞼を赤くし、かすかな笑顔を見せた。そして、ありがとうございます、と小さく言って、頭を下げた。
 手塚さんのところへ戻ると、もういい?と彼が聞いた。私は、うん、と答えた。じゃあ帰ろう、と手塚さんは言った。
 「…それにしてもさ。」
 「うん?」
 「どうして分かったの?ちゃんと説明して!」
 車に乗り込み、シートベルトをするのもそこそこに私がそう切り出すと、何が?と言って手塚さんは車のエンジンをかけた。
 「いろいろ!順番に!全部説明して!」
 と詰め寄る私に、お、やる気だねえ、と手塚さんは笑った。
 「じゃあ、うん、何から話せばいい?」


 「…まずは、あの葉書が届いたところからなわけだけど。」
 「うん。」
 「今、久乃さんはどうやら那覇に居るようなので、つわりで動けないってのは嘘らしい。妊娠初期の妊婦が、つわりを我慢して旅行してるわけでもないだろうし、そこに実家があるわけでもない。普通、安定期までは大人しくしてるんじゃないかな。少なくとも飛行機に乗ろうとは思わないだろう。で、妊娠自体が嘘なのかもな、と思った。」
 最初から!と私にせかされて、はいはい、と手塚さんは話し始めた。
 「確かに。那覇に居るってなると。」
 うん、と頷いた手塚さんは、
 「で、大家さん。」
 「はい。」
 「あの葉書もらって、それからどうするつもりだった?」
 と私に聞いた。
 「ん?それは…返事の葉書を書くよね?メールも変わってたし。」
 だよね、と手塚さんは言い、偉い偉い、大家さんは良い子だね、と私をからかった。普通だから!と思わず顔を赤くした私に、ごめん、と笑った彼は、
 「葉書をもらった他の人たちも同じだと思う。そしたらどうなる?」
 とまた私に尋ねた。
 「どうって…。」
 「うん。」
 「どうって何?それは…みんなからの葉書が届くよね、あの家に。」
 そうだね、と前を向いたまま手塚さんは答え、更に続けた。 
 「そしたら?」
 「え?」
 「久乃さんは今、沖縄だよ。」
 「…あ。」
 そう言われて、私にもやっと手塚さんの言いたいことが分かって来た。
 「旦那さんが読む、か。」
 その通り。手塚さんの手が、私の頭に置かれた。
 「っ!」
 一瞬、何が起きたのか分からなかった。思わず胸元のシートベルトを握りしめた私を見て、手塚さんは肩を震わせている。
 「手塚さん!もう!」
 「分かりやすいなあ、ほんと。」
 「う!そんな話はいいから!」
 はいはい、そう言って手塚さんは、旦那さんが読むね、そしたら、と続けた。
 「旦那さんは驚く。」
 「だね。だって、」
 「妊娠おめでとうって書いてあるからね。」
 「超びっくりするね。」
 うん、と頷いて、
 「妊娠おめでとう、って書いてある葉書を旦那さんに読ませたかった。それはどうしてか、って考えたってこと。」
 そう手塚さんは言った。
 久乃から届いた、あの葉書が目に浮かんだ。可愛いイラストが散りばめられた薄いピンク色の世界に、丁寧な字で妊娠を知らせる文面が綴られていた。
 「そっか…。うーん、でもなんか…サプライズだったかも知れないじゃん?妊娠も本当で、自分が妊娠したことを旦那さんに知らせるいたずらだった、とか。」
 私がそう言うと、
 「まあね。でも、旦那さんは大家さんの友達に、最近何か変わったことはないかって聞いてる。奥さんはどうやら沖縄にいる。急にそれほど仲が良かったわけではない旧友たちに葉書を送って来て、つわりがひどいとか嘘ついてる。変わったこと起きまくりだよね。そんなほっこりした雰囲気でもなかった。」
 と手塚さんは言った。
 「うーん。確かに、いたずらにしては、なんというか、負のパワーを感じるよね。」
 「そういう葉書を見せるのは、相手を責めたいからなんだろうと思ったんだよ。旦那さんはその文面を見て、責められてるような気持ちになるシチュエーションにいるんだろうって思った、ってこと。」
 次々と届く、妊娠おめでとう、の葉書を読んでいたら、あの旦那さんはどう思っただろう。想像すると、ちょっと怖くなった。葉書一枚だけれど、もし本当にそれが狙いなのだとしたら、地味に効く作戦だな、と思った。
 「まあそんなわけで、メールやLINEなんかであまり連絡を取ってない人を選んだんだろう。その人たちなら葉書を書くだろうから。」
 葉書を出してしまう前に、手塚さんが気づいてくれて良かった。心の底からそう思った。
 「…あとそうだ、久乃が居なくなって三カ月っていうのは?」
 まだ疑問が残っていたことを思い出し、私は彼に聞いた。
 「ああ、それは、当てずっぽう…まあ、全部当てずっぽうなんだけどね、省庁の人事異動は四月一日付が多いだろうから。そこから三カ月経っているなってこと。仕事が忙しくなった、とかそんな話がきっかけだったんじゃないかなって。」
 「うーん、言われてみれば。」
 「うん。」
 「それにしても、三カ月ってね…。」
 私はため息をついた。
 「…長いね。でも、男の俺でも、あの旦那と一緒に暮らすのは大変そうだなって思う。」
 そう言った手塚さんの言葉には、私も思わず頷いてしまった。
 「久乃は本当に頑張り屋さんだったからね。真面目だし。ずいぶんと我慢しちゃったんじゃないかな。」
 「そうか。…まあ、分からないな、夫婦っていうのは。」
 「そうだね。キラキラした葉書一枚で、すべて分かった気になったらいけないね。」
 そうつぶやいた私に、まあね、と応じて、
 「でも、怒ったり責めたりするのは、その状況を変えたいって思うからなんじゃない?もうどうでもいいならそんな手の込んだ葉書じゃなくて、離婚届を送り付ければいいんだし。」
 と手塚さんは言った。
 「うん…。」
 「案外今は、沖縄で羽を広げて楽しんでるのかもよ。それでいつの間にか三カ月も経っていた、っていうのが本当のとこかも。浦島太郎だな。」
 そして、あんまり心配しないで大丈夫だと思うよ、とバックミラーを見ながら言ってくれた。


 このところ雨模様が続いていたが、今日はやっとカラッとした晴天になっていた。こんなふうに誰かと車で出掛けるのなんて、久しぶりだった。特に男の人とは。運転している手塚さんを盗み見る。突然千葉に行く、と言い出した時はびっくりしたけれど、帰り道の今、千葉と東京が五千キロくらい離れていればいいのにな、と思っている。
 「…ん?どうした?」
 手塚さんの声がして、慌てて目を逸らす。ううん、何でも、と照れ隠しに窓を全開にした私は、
 「…結婚を決めたときは、ただただ幸せだったんだろうにねえ。」
 なんて口走り、そう言ってから、胸がチクリとした。そんな私に気づくことなく、ああ、久乃さんたちね、と応じた手塚さんは、
 「まあ…恋してたってことなのかな。」
 なんて言ったので、私は驚いてしまった。
 「え!」
 「何?」
 「手塚さんから、恋って単語が出るなんて。」
 吹き出した手塚さんは、
 「何だよ、俺が恋愛語っちゃいけないの?そのときは恋に落ちて、見境なくなってたんだろうな、ってことくらいは分かるよ。」
 と今日イチの大声を出した。それで私も笑ってしまった。
 「うん…そっか…。」
 そんな私を見て、
 「…いや、ごめん、よく考えたらそんな偉そうに言うほどのことでもなかった。」
 と手塚さんは黙り込んだ。チャンスと見た私は、
 「恋愛の達人なのかと思った。」
 と反撃に出た。
 「おい、からかうなって。」
 「どんだけラブプロフェッショナルなんだ、って思った。」
 「だから悪かったって。何だよラブプロフェッショナルって。」
 その職種初めて聞いたんだけど、と言って手塚さんは笑った。それから、赤信号で車を停止させた彼は、
 「でも、まあ、」
 とちょっと伸びをして、
 「恋愛に限らずなんだろうけど、上手く行くときっていうのは、何ていうかこう、すごくシンプルに簡単に進んだりするもんじゃないかなって俺は思ってる。追い風で進む船みたいな。」
 と言った。
 「追い風でねえ。」
 「この仕事始めたときがそうだった。自分で会社作るべきかどうか迷っていたけど、知り合いに相談したら、仕事発注してくれそうな会社を紹介されて。そこからはもう、紹介に紹介で、迷ったり悩んだりするヒマもなく、気がついたら今の状態になってた。」
 「そうなんだ。」
 それは何だかすごく分かる気がした。
 追い風に背中を押されて出帆した旧友は今、向かい風の中、それでも必死で前に進もうとしているのかも知れない。そんな海に漕ぎ出さねばならなかった久乃の気持ちを思うと、もうあまり付き合いのない友人とはいえ、やっぱりつらかった。いつも自信満々で、弱さなど人に一切見せないような人だった。そんな彼女が手に入れたこの結婚だって、みんなが羨むような結婚だったはずだ。そんな船でも、時には風向きが変わる。
 「ただ…まあ、そんなどさくさに紛れて当時の彼女は居なくなってた。」
 「げ!」
 「だから言っただろ。ラブプロフェッショナルじゃないって。」
 「ほんとだよ。二度と偉そうなこと言うな。」
 そう言う私を手塚さんは、生意気な大家さんだなあ、と笑って、信号が青になるとまた車を発進させた。それから、まあ、つまり何が言いたいかと言うと、と私を見て、
 「いい風が吹かないときは、のんびり浮かんでいればいいんじゃない?大家さんみたいに。」
 と言った。
 「あ。今さりげなく失礼なこと言った?」
 「ああ、腹減ったな。何か食べて行こうぜ。」
 ほら、その笑顔だよ、と思う。知らないうちに手塚さんもラブプロフェッショナルになってるのかも知れないですよ?誰かのハートを撃ち抜いているのかも知れないですよ?私がそんな馬鹿なことを考えていると知ってか知らずか、この日、手塚さんはずっと優しかった。