それなのに──。
「これは何でもございません」
ベアトリスは咄嗟に顔を背ける。
「そうか? では、何かあれば王宮の者に伝えてくれ」
「はい」
ベアトリスが頷くと、男性はすぐにベアトリスに背中を向けてスタスタと歩き始めて、あっという間に見えなくなった。きっと、急いでいたのにベアトリスがぶつかったせいで足止めしてしまったのだろう。
「はあ。婚約破棄されるわ、友人は失うわ、人にぶつかって尻もちつくわ、今日は散々ね」
ベアトリスはスカートを叩いて埃を落とし、ため息をつく。
自分も帰ろうと歩き出したそのとき、廊下の床に何かが落ちていることに気付いた。さっきまではなかったように思う。
「ん? 何かしら?」
拾い上げると、手紙のようだった。鷹を象った赤い封蝋が押されており、封は開いていない。
「わあ、珍しい! これは、ヒフェルの古代文字ね」
宛名欄に書かれている文字は、セルベス国からは遠く離れたヒフェルという島国の古代文字だ。しかも、ヒフェルは何百年も前に滅亡しており、まさに失われた言語といって過言ではない。ベアトリスが言語オタクでなかったら、ただの記号だとしか思わなかっただろう。



