「荷物はこちらで全部ですか?」
「はい、お願いします」
「それじゃあ、失礼します」

業者の男女がキャップを取って頭を下げ、私も会釈を返した。
隆司先輩が業者を3人手配してくれたけれど、元々家具類はないし、ここに越してきて増えた荷物は小説数冊くらいだ。
ほんの15分程度で部屋はがらんどうになってしまった。
引越し業者に頼まなくても、宅急便で送ってもいいくらいだったと思う。
引っ越してきた時もそんなことを考えていたのだけれど、今思えばバイトの店長のことがあったから早く転居をと配慮してくれていたんだろう。

『半年間、婚約者を演じて一緒に暮らしてほしい』

「…なんか懐かしいな」

半年間の契約だったけれど、ここに住んでいたのは結局4ヶ月弱だ。
颯太と一緒にいた時間も決して多くはない。
けれど、心に固く被せた蓋を剥がすにはじゅうぶんな時間だった。

タガが外れたように私を求めた昨夜の颯太は、いつもやさしく抱いてくれたあの頃とは違う。
けれど、それを愛おしいと、いっそこのまま壊してほしいという狂気すら湧く自分がいた。
10年経った今も、私は彼を好きなままだった。
いつの間にか、10年前よりももっと彼を好きになっていた。
好きだなんて口にはできず、最後に感謝の言葉すら言えなかったけれど、少しだけ彼に宛てて想いを残してもいいだろうか。
あの小説の主人公がそうしたように、私も。
ダンボールにしまわずバッグに入れていた小説を取り出し、ページの角をほんの少し折ってテーブルの隅に置いた。
颯太は気づかないかもしれない。
『忘れていったんだな』と処分してしまうかもしれない。
それはそれでいいのだ。
こんなの、ただの自己満足でしかないのだから。

窓の外を見れば、東京タワーは相変わらず不動にそびえ立っている。
二度とここに足を踏み入れることがないと思うと、ひとりで見るのが心細かったこの景色さえ少し名残惜しい。
もう私には縁のない場所。元々触れるはずのなかった遠い世界だ。

「さよなら」

呟いた言葉は、誰にも知られることなく宙に消えた。