きらきら光る運河の波の向こう側、貴族屋敷の重苦しい空気の溜まる此方側とは違う、活気ある世界の様子を、屋敷隅にある小窓から覗き見るのがこの頃の私の唯一の楽しみでした。

「アンネ、アンネローザ!貴女またそんなところで……」
「お、お母様。申し訳ありません、お探しでしたでしょうか」

 慌てて小窓から離れ、お母様お気に入りの淑女の礼をいたしました。完璧なそれに満足しながらも、やはり簡単には誤魔化されては下さいません。

「この窓は打ちつけてしまうように、ドリオに言いつけておきます。明かりが取れなくなるよりも、貴女が庶民などに顔を晒すよりは良いでしょう」
「お母様、そんな! 彼方からはこんな小さな窓の中まで見えませんわ」
「いいえ、見えるか見えないかではありません。貴女が見えるかもしれないと噂が立つだけでもいけないのです」
「そんな……」
「当たり前のことですよ。あなたはいずれ、第二王子妃となるのですからね。少しの瑕疵も気をつけなければいけません」

 うんざりするほど聞かされた言葉が胸を刺します。

 我がオルテガモ伯爵家は、家柄こそ古いもののその内情は爪に火を灯すとまでは言いませんが、あまり芳しいものでなかったのです。
 そうして私が小さな頃、お母様はその貴族としての高い作法と立ち居振る舞いを請われ、王宮で第二王子殿下の礼儀作法の教師として職を得ました。王子殿下の教師という立場は、お母様のお持ちしている貴族としての矜持と、その高いお支度金の両方を満たした素晴らしいものであったそうです。
 そのため月の半分以上王宮で暮らすこととなったお母様から、礼儀作法こそ厳しく躾られたものの、その呪縛からは解き放たれた私は、隙間から垣間見る庶民の生活へと、どんどん憧れを募らせていったのでした。

「さあ、夜会の支度を始めないと。今夜も第二王子殿下はお顔を出されると仰っておられました。アンネローザ、貴女によほど会いたいらしいわ」

 先程までの不機嫌さなど忘れてしまったのかのように、嬉しそうな笑顔をたたえ、私を促します。
 私は、年下の非常に美しい少年の顔を思い出し、一つため息をつきました。


「来たか、アンネローザ」
「はい。第二王子殿下につきましては、ご健勝のことと存じ上げます」

 王宮での夜会が始まりました。陛下と王妃殿下のご挨拶を賜りました後、段々と人々の行き来が激しく盛り上がって参ります。その中で忙しく挨拶に回るお母様とは離れ、ひっそりと壁の花と化していた私のところへ、件の第二王子殿下がいらっしゃいました。
 私のドレスを一瞥し、うん、やはりピンクがよく似合う。と頷かれると、手を差し出されたのです。

「ダンスをお誘いしてもよろしいですか? オルテガモ伯爵令嬢」
「え、ええ。喜んでお受けいたします。殿下」

 少し驚きました。前回お会いした時にはまだ子供っぽさが抜けきれないご様子で、私の手を強引に捕まえ、あちらこちらへと連れ出されたというのに。
 私の当惑を知ってか知らずか、御年十三歳になる第二王子殿下は完璧なエスコートでダンスフロアへと導いてくださいました。
 ダンスを一曲踊った後、第二王子殿下は私をテラスへと誘われます。殿下のお誘いを断るなどという選択肢は、一介の伯爵家子女などに与えられるものではありませんので、仰せのままにと従いました。

「今日のエスコートはいつも通りあの伯父上か?」
「ええ、バーソン伯爵にお願いしました」
「ああ、ならいい。あれなら我慢もしよう」
「え?」

 十七の歳にして婚約者のいない私には、誰かにエスコートをお願いしなければ夜会になど来ることは叶いません。そしてそれは大抵が身内なのです。
 そういえば、最近は歳近い従兄弟ではなく、一番お年を召した伯父上がほとんどでしたが、もしや、お母様と何か……

 懐疑的な目で第二王子殿下のお顔を拝見すれば、今日はなんとなくいつも以上に嬉しそうな声で話されます。

「ようやく、婚約者を持てることとなった」
「え?」
「父上、いや。陛下にお許しを頂けた。まだまだこれから選別があるだろうが……アンネローザ、私は……」
「で、殿下っ!恐れ多くも申し上げさせて頂きます。殿下のそれは、刷り込みでございます。私のお母様からの、そしてあの日の……」

 私の十五のデビュタントの日のことでした。お母様を訪ね控えの間へこっそりと顔を出された第二王子殿下と初めてお会いしたのは。
 緊張して今にも倒れそうな私へ、当時十一の殿下が王宮内の面白いお話を身振り手振り、演技をされながらお話してくださいました。その姿がとても可愛らしく思えて、落ち着きを取り戻した私は図々しくも第二王子殿下へこう伝えてしまったのです。

『ありがとうございます、殿下。殿下は私がお会いした方の中で一番素敵なお方ですわ』
『私も、私も同じだ!アンネローザ、お前は私があった令嬢の中でも一番可愛らしくて美しい』

 ほんのりと頬を赤らめ殿下は、私の手の甲へとキスをして下さいました。

 あの日のそれは、苦痛でしかなかった貴族社交界の中でも一番温かな思い出です。
 けれども、決して継続させてはいけない思いでもあったのです。

「殿下には、その御身分と御歳に相応しい伴侶が見つかりますよう、陰ながらお祈りさせて頂きます。どうぞ、ご婚約の義、恙なく迎えられますように」

 そう言って、急ぎその場から離れてしまいました。
 後ろで、第二王子殿下が呼ぶ声も聞かずに。


「贈り物ですか?」
「ええ、王宮で渡されたの、きっと第二王子殿下からのね。あなたの好きなお花の砂糖漬のようよ。あらまあ、私がお教えしたのを覚えていらしたのね」

 お母様がニコニコと贈り物の箱を掲げながら、メイドへお茶の用意を言いつけます。
 私は自分から殿下の言葉を遮ったというのに、その贈り物を見て少しほっとしました。お優しい殿下が嫌いなのではありません。むしろ大変好ましく思っています。
 けれども、どうしたって無理な話です。オルテガモ家のような伯爵位、それもなんとか貴族の体裁を取り繕うのが精一杯の貴族が、第二王子殿下の妃になることなど、現実的に考えても無理なのです。

 ああ、貴族なんて……貴族なんてもう嫌です。
 庶民になりたい。あの、きらきらと輝くような、運河の向こう側で、生きていきたい。

 そうして、お茶菓子として出されたその砂糖漬を摘まみ口に入れたところで、私の意識は飛んでしまったのでした。
 一度だけ、何かに呼び止められるようにと、紫の薄いベールの中で声が聞こえました。
 泣いているような、叫んでいるような、そんなとても痛々しい声です。
 そしてその合間合間に、とても不愉快な言葉が断片的に落ちてきました。『候補』『王太子殿下』『婚約』『間違え』『公爵家の』ああ、もうそんなことはどうでもいいのです。

 それよりもどうか、泣いているあの人に教えてあげて下さい。泣かないで、泣かないでください。
 私は、あなたのことが――――

 そうして、アンネローザ・オルテガモとしての意識を手放したのです。