自分にとっての常識が世間の常識とかけ離れたものだということは、かなり小さい時から意識していたと思う。おそらく物心ついた時からそう知っていた。
 しかし知っていたからといってなんだというのだろう。
 周りからのお仕着せを身に着けさせられても、ルーティンワークのような習い事を押し付けられても、唯々諾々と受け入れていればそれで万事が相済む。そういうものだと思えばなんということもない。
 良く言えば聞き分けがよく素直、悪く言えば機械的で無気力。それが自分に対しての周りからの評価だった。
 けれども、なまじ教えられたこと全てを完璧にこなすことが出来たおかげか、悪評の方だけはすっかりと鳴りをひそめてしまい、いつの間にか完全無欠の称号を得てしまったようだった。それすらもどうでもいい。そう思っていた。

 あの日、あの時までは――――

「あれは?」

 金網の向こうに同じ年頃の小学生の子供たちが紺色の袴で竹刀を振る姿を見つけた。何の気なしに側に仕えていた者に尋ねると、僅かに楽しそうな気配で返事をした。

「剣道クラブの子供たちのようですね。ああ、道場があるんですよ」
「剣道……」

 男子も女子も入り乱れて、対等に打ち合う姿に思わず見入ってしまった。
 本当の意味で男女が平等というわけではないのだろうけれども、小学生くらいの男女差ではそれは無いに等しいもののように見えた。だからなんとなく惹かれた。

 早速それを伝えると、周りはあまりいい顔をしなかった。だからという訳ではないが、なんとなくムカついて、ずっと伸ばしていた髪をばっさりと切ってやった。
 生まれて初めての反抗心に周りは大騒ぎし、口汚く乱心だと騒ぎ立てたが知ったことではない。そうこうしていると、色々と制約のある自分を慮ってか、はたまた感情の爆発を抑えるためなのか、両親と数少ない友人が口裏を合わせるように自分をこっそりと剣道場へと通わせてくれることとなった。

 三日月家の初と、新明家の朔太朗が付き合いで一緒に通ってくれたのはありがたかった。朔は腹黒だからどんな状況でもうまく立ち回れる。初は馬鹿だから適当でいい。
 そんなふうに始めた剣道だが、思っていた以上に楽しかった。ここでも完璧の名にふさわしく、あっという間に強くなったがそんなものはただの副産物だ。

 最初はとっつきにくかっただろう自分でも、続けていれば段々と話しかけてくる奴も増えてくる。中でも一つ下の少年に、筋もよく何度打ち負けても懲りずに喰ってかかってくる奴がいて、色々と目をかけてやった。
 両親とは昇級審査にも試合にも参加しないと約束をしたのでそれ自体には興味はなかったが、続けていれば自分がどれくらいの段階なのかはなんとなく気になるものだ。だから時間を作り皆には内緒で、その負けん気の強い一つ下の少年の昇級審査を見学に行ってみた。

 思ったより小さな会場で行われたそれは意外と盛況で、目当ての奴がどこにいるのかと見回すくらいだった。

湖月(こげつ)くん!」

 こげ茶の目を真ん丸にして飛び込んできたその少年を受け止めて、両手で頭をぐりぐりとしてやる。

「防具つけたまんまぶつかってくるな。痛いぞ、はると」

 こっちのが痛いよー。としゃがんで頭を押さえるが、知るか。背の低めな自分はこの一つ下の少年と大差ない身長だから防具がモロに腹にあたる。

「で、どうだ?」
「へっへー!」

 問いかけに多分ね、とVサインで返す、はると。なんだもう終わったのかと落胆した。折角足をのばしたというのに、時間を無駄にしたと、帰ろうとしたところで袖を引っ張られる。

「え、もう帰っちゃうの?」
「ああ、これ以上いても仕方がないだろう」

 初めて道場以外で会ったことに興奮しているのか、はるとはしつこく引き留める。

「ね、ね、特別に姉ちゃん見せてあげるから待ってて」
「いや別にお前の姉ちゃんに興味ないわ。つーか、なんでそんなに上から目線なんだよ」
「そんなの絶対に後悔するよ、めっちゃ可愛いよ!すっごいお嬢様だからっ!」

 お嬢様なんて、もう腹いっぱいなんだよ。うるせえな。
 馬鹿じゃねえの、お嬢様なんか糞くらえだ。あああ、もう嫌だ。嫌だ。嫌だ。どうでもいいはずの現状が黒いもやもやとなってまとわりつき息苦しい。
 せっかくうさばらしにと足をのばしたのにこんなんじゃとてもそんな気分にはならない。

 本気で帰ろうと振り返ったその先に、
 ――――天使がいた

 少し離れたところで、保護者と思われる大人たちと一緒にいるその可憐な女の子は、周りの奴らとは纏う空気が全く違っていた。
 柔らかな雰囲気に淑やかな所作。緩いウエーブのかかったブラウンの髪が、きらきらと光り輝いている。遠目で見えにくいが、きっとその瞳も髪と同じブラウンなのだろう。すっと落とした瞼に、綺麗なまつげが飾られている。
何をするわけでもないのに、ただそこに立っているだけでも一目でわかる、特別な少女だ。

 誰もが夢想する理想のお嬢様だと。
 思わず、ごくりと息をのんだ。

「……おい、はると。あの、」

 少女を知っているか?と尋ねようとした瞬間、目の前の少年が大きな声を張り上げた。

「あそこ! うちの姉ちゃん、あそこに居るから。おーいっ! うらら姉ちゃんっ!」

 そう呼ばれたその少女は、はるとに気が付くと、楚々とした振る舞いで軽く手を振ってきた。

「はると、お前……あの子が、お前の姉ちゃん、か?」

 自分の擦れた声にも気が付かず上機嫌で「そうだよ、お嬢様でしょ」と言った。
 身内びいきかと思ったが、とんでもない。本気で、最上級のお嬢様だ。どうすればこんな見るからに庶民のやんちゃな少年の姉が、あんな理想のお嬢様になるのかわからない。
 いや、顔だけ見れば似ていないこともないが、やはり立ち振る舞いが違う。
 けれどそんなことはもう関係ない、そうだ自分はもうどうしようもなく惹かれてしまったんだ。

 あの、うららという少女に――――

 会場を出た自分を、見知った一台の黒い車が待っていた。もうバレたかと、思いもしたが、早く帰りたかったからまあいいかと、開けられたドアを屈み乗り込んだ。
 中には、朔と初の二人が呆れたような顔をして座っている。丁度いい。

「朔、ウイッグよこして」

 蝶湖用のものだ。ばっさりと髪を切ってしまってから使わせられているものだから、当然持ってきてるだろう。

「どうした?自分からよこせとか」
「今日から蝶湖として過ごすことにした。お前ら、これから湖月って呼ぶなよ」
「ふうん。今まで俺らだけの時は、絶対にその名で呼べっていっていたのに?どんな心境の変化?」

 興味津々な顔をして、朔は開けたカバンの中から、うやうやしく手に取りウイッグを渡してくる。

「理想のお嬢様に出会ったからな」
「え、なになに? 湖月、男やめんの?」
「うるせえ、バカ初。やめねえよ」

 自分は生まれた時からずっと男だってーの。
 ただ、しばらくの間、封印するだけだ。

 十五の儀式まで月詠の跡継ぎは理想的淑女として過ごさなけりゃいけないなんてアホくさい因習に縛られ続けて、それでもいちいち逆らうことも面倒くさいと、こうやってたまの息抜きをしながらただただ惰性的思考で続けてきたコトだが、気が変わった。
 大いなる意識改革。大革命だ。
 どうせ十五の儀式までは続けなきゃならないこの馬鹿な茶番なら、いっそ真面目に真剣に取り組んでやる。髪くらい伸ばしたっていい。適当に流してたマナーだろうが、なんだってやる。そうしてなんやかんやと五月蠅い周りをぐうの音もでないくらい黙らせて、さっさと自分を認めさせてやるよ。

 完璧なくらいに、月詠の絶対の君主として。
 そして、そうして、あの天使のように可愛らしいお嬢様。

 ――――うららを俺のものにする。
 そう決めた。