「有朋さんはピアノを選んだのね。わかりました」
「はい。日程はまた後ほど、下弦さんからお知らせします」

 蝶湖様が図書室にいらっしゃるからと、下弦さんに追い立てられたのはつい先ほどの事でした。
 対決の種目を連絡して、あわよくば演目を聞き出して欲しいとスパイの役目を仰せつかったのですが、そういった真似は……と言いますと

『うん。僕、卑屈で狡猾だからさ』

 と答えられ、返す言葉が見つかりません。つくづく口は災いの元だと痛感いたしました。
 図書室で対決種目を告げると、もう帰るところだったからとおっしゃり、一緒に昇降口へと向かいます。途中、蝶湖様が私に尋ねられました。

「ねえ、うららはどんな曲がお好きかしら?」
「そうですね……」

 ここで私が、下弦さんの思惑通りに有朋さんにとって都合のいい曲を伝えても、きっと蝶湖様はその曲を弾いてくださるのでしょう。とても優しく話しかけてくださる姿に、勝手ながらそう思ってしまいました。
 けれども、蝶湖様が弾かれるピアノ曲。私が聴きたい蝶湖様のピアノ曲。きっと、それはそんな身勝手に決められたものではありません。だから、正直に自分の気持ちを伝えます。

「穏やかで優しい曲が好きです」
「そう。じゃあ、そんな曲にしましょうね」

 ――あなたのために弾くことにするわ。

 そうおっしゃって微笑む姿はとても綺麗で、艶やかで、見ているだけで顔が火照ってしまいます。
 どうしましょう。憧れるほど素敵な方なのに、なんだか急に一緒にいて落ち着かない気分になってきました。
 そんな私の動揺を知ってか知らずか、蝶湖様はいろいろと話しかけてくださいます。若干上の空気味で応えながら歩いていると、正門のところで不意に声がかかりました。

「姉ちゃん」
「はると君、どうしてここに?」
「姉ちゃんまだ帰ってこないから見て来いって、きららから連絡きた」

 そういえば今日はきららちゃんのお買い物に付き合う約束をしていたのに、有朋さんの件ですっかり忘れてしまいました。

「いやだわ、急がなくっちゃ。はると君もごめんなさいね。わざわざ寄ってくれたんでしょ?」
「いや、剣道場寄る途中だし……」

 はると君は竹刀と防具入れをかけている肩に親指を指し示します。そうして、驚いたように一点を凝視していました。
 視線の先には、蝶湖様――

「あ、蝶湖さん。この子は私の弟のはるとです。はると君、こちら月詠蝶湖さんです。お姉ちゃんのお友達なのよ」

 失礼の無いようにと、急ぎ紹介をします。蝶湖様は、僅かに身を固くしたように見えましたが、すぐにいつも通りの笑顔で応えてくださいました。

「はじめまして、月詠蝶湖です。お姉さんにはいつもお世話になっています」
「…………っす」

 愛想以前に礼儀が全くなっていません。口うるさく思われても、そこはしっかり言い聞かせるべきだと思い、口を開こうとしたところで蝶湖様に止められました。

「いいのよ、うらら。急ぐんでしょう? 早く行ってあげなさい」

 普段と変わらない落ち着いた声で話す蝶湖様に安心し、頭を下げて場を離れようとしたその時、唐突にはると君が蝶湖様に向かって尋ねました。

「ねえ。あのさ……あんた、兄弟っている?」
「え? ちょっと、はると君……」
「……いいえ、一人っ子です。兄弟はいませんわ」

 それがなにか?
 そうおっしゃった蝶湖様は、何故だか少し挑戦的で不穏な空気を醸し出していました。

「いや、……なら、いい」

 私には意味の分からない質問だったのですが、はると君は誰か蝶湖様に似ている方を知っていたのでしょうか?そんなことを考えているうちに、はると君はさっさと踵を返してしまいました。

 私は、再度蝶湖様に向かって頭を軽く下げます。そうして先を行くはると君を追いかけました。