頭が真っ白になるとはこういうことを言うんだと思った。でも、即座に殴ったのは高橋さんではなく大和だったのは自分で褒めたかった。その場で別れを宣言し、一人帰宅したのだ。

 大和からは何やら連絡が来てたけど、読まずに無視している。


 翌日、正常な自分でいられるわけがない。


 逃げるようで嫌だったから、出社はした。その日は金曜だったから、一日頑張れば休みなんだしと自分を言い聞かせて。高橋さんの方がなぜか休んでいた。まあ、私に合わせる顔がないのは当たり前ではある。

 その日は驚くようなミスを繰り返し、ついには取引先が怒鳴って怒るほどのことを初めてやらかしてしまった、というわけだ。

 こんなことなら出社するんじゃなかった。おとなしく休んで部屋で泣いていればよかったんだ。変なプライドで会社に来たけれど、結局周りに迷惑かけているだけだ。

 心の中がぐちゃぐちゃでどうにかなってしまいそうなとき、私に声をかけてくれた人。

「泣いてる暇はない。起こったミスを悔いても何も変わらないよ。
 とりあえず謝りに行こう。俺も行くから」

 凛とした声に顔を上げる。


 成瀬さんだった。


 成瀬慶一。年は二十九。入社したころから、そのコミュ力と判断力は凄まじく、一気に営業部トップに躍り出た凄いお人。

 ビジュアルも優れていた。バランスのいい目や鼻、普段は大人っぽいのに、笑うとくしゃっとなる少年顔。女子社員たちはみなハートを射抜かれていた。営業部だからもちろん、清潔感のある身だしなみで、面倒見もよかった。いつだって困ってる人に声をかけ、褒めるところは褒め、みんなの士気を上げてくれているものすごい存在だった。その仕事っぷりは文句のつけようがなく、細かなミスもしない完璧人間。いつでもスマートで余裕たっぷり。

 彼が出世しないなら誰がする? なんて思うほど、上からも下からも人望が凄い。

 とにかくみんなの憧れでいつでも完璧に仕事をこなす最高の先輩。それが成瀬さんだ。
 
 私は同じ部署でありながら、仕事上の会話しかしたことがない。話しかけるのすら躊躇ってしまう、そんな相手だ。

「な、成瀬さん」

「よし、行こう。大丈夫、なんとかなる。佐伯さんがいつも真面目に頑張ってること、向こうも分かってるから」

 そう白い歯を出して笑ってくれる成瀬さんに、私は今度こそ涙を零した。だがすぐにそれをぬぐい、置いてあったコートを手に掴んで二人で外に飛び出した。