にこっと笑った成瀬さんは、私に言った。

「ありがとう。佐伯さんおかえり」

 そして差し出した紙袋を手に取り、ようやく中からタッパーやおにぎりを取り出すと、彼は美味しそうにほおばりだしたのである。

 私は脱力して床に座り込んだ。ぐるりと部屋を見渡し、普段と変わりない生活感のなさにあきれる。ダイニングテーブルもないどころか、ソファ前のローテーブルさえない。冷蔵庫はかろうじてあるもののそのほかはキッチンはすっきりしている。

 まさかほぼ二日間、何も食べずにいただなんて。なんという人間。

 信じられない気持ちでおにぎりを頬張る男を見る。

 佐伯志乃、二十六歳。社会人になってそこそこ経ち、世の中には信じられないことがたくさんあるんだと理解はしているが、今だこの人の生態が理解できない。

 彼は成瀬慶一。何を隠そう、私の勤める会社の営業部で、最もいい成績を収め出世コース間違いなしと言われている、完璧人間なのだ。







 私と成瀬さんの不思議な関係が始まったのは、ほんの二週間前のこと。

 その日私は、絶望の中出社していた。

 ずっと順調な日を送っていた。大学を卒業後、希望していた会社に就職でき、さらには営業部に所属。仕事はもちろん辛かった。でも毎日踏ん張って踏ん張って、先輩たちから吸収できるものは何でも学び、日に日に成長しているのを感じていた。就職して四年、仕事も一人前にこなし、やりがいのある毎日を送っていた。

 プライベートも充実していた。付き合って一年になる恋人、大和とも上手く行っていた。喧嘩もするけど仲もいい。大和は部署こそ違うものの、同じ会社に勤めていた同期で、公にしていたわけではないが仲のいい友人たちは知っていて、温かく守ってくれていた相手だ。

 私は今年、一人の後輩の指導係になった。新卒ほやほやの可愛らしい女の子で、名前は高橋あずさ。長い髪を緩く巻き、ネイルもしっかり施す完璧な女子だった。顔も美少女なので、男性社員たちがあからさまに彼女に優しいのを、ひしひしと感じる。

 高橋さんは明るく返事はいいのだが、仕事はできなかった。誰でも最初は出来なくて当然なので根気よく教えるも、はーいと返事をしてメモも取らない。任された仕事は少しでも難しいと、他の男社員に困ってるんだとアピールして手伝ってもらってばかり。

 ミスして私が注意すると、この世の終わりとばかりに泣きそうな顔をされ、悪者は私になった。正直、高橋さんの犯したミスで私が残業しなくてならないことが多くなり、苛立っていたのも否めなかった。彼女は残業をお願いしても、いつの間にか消えていなくなっているのだ。

 前日の夜も必死に残業し、遅い時間に帰宅することになった。くたくたなまま街中を歩いていると、なんというタイミングか。

 高橋さんと大和が仲良くホテルから出てくるのを見てしまった、というマンガみたいなハプニング発生だ。