ピアニストは御曹司の盲愛から逃れられない


 マンションへ着いたので、柿崎は彼女と荷物を下ろして、結局部屋の前までスーツケースなどのカートを運んであげた。そこで彼女に挨拶して、車を堂本の実家へ戻すべくその場を去った。

 百合は、扉の前で立ち尽くした。インターフォンを鳴らす勇気がなかった。
 
 鍵を出して扉を開ける。扉の前に黎はいなかった。花の香りもしない。百合は悲しかった。自分で別れを告げながら、どうしようもなく寂しかった。

 靴を脱いで、手荷物だけもって部屋へ入った。黎が座って静かな目でこちらを見ていた。

 「やあ、久しぶりだね。元気だった?栗原さん……」

 黎はそう言った。
 
 百合はその黎が向けた冷たい微笑みと名字を呼ばれた衝撃でしばらく立ち尽くし、返事が出来なかった。