穏やかな日々、それはそれで退屈に感じてしまう。何事もない日常こそが一番の幸せである事を忘れた私にバチが当たったのか、もしくは天性の不幸体質なのかは分からない。私の平凡な日常は半年と持たなかった。

 今どきオートロックも付いてないマンションだけど駅から三分と立地は悪くない。家賃が安い代わりに住んでいる住人も得体が知れない。

 マンション内ですれ違えば挨拶くらいはするが、どんな家族構成でなんの仕事をしているのかは分からない。他人に頓着しない現代っぽさは有難いけど、正体不明の人間がすぐ近くに住んでいる不気味さは拭えなかった。

 特にエレベーターで一緒になった時に三階のボタンを押す住人は際立って気味の悪い男だった。歳の頃は四十代、チリチリの天然パーマにアメフト選手のようなガッチリとした体躯で平日の昼間からジャージでウロウロしている。

 スーツを着ている所は見た事がない、無職なのだろうか。最近流行りの子供部屋おじさんかも知れない。とにかくあまり関わりたくない男だった。

 このマンションには一階に二台だけ車を駐車するスペースがある。ある日、買い物帰りにマンションに入ろうとすると黒いベンツが車庫に収まった所だった。何の気なしに視線を送ると車から出てきたのは子供部屋おじさんの男だった。

 何者なのだろう?

 そんな疑問が頭をよぎる。金持ちのボンボンか、何かの経営者か。いずれにしろたいした興味は無かった。

「こんにちは」

 そのルックスにそぐわないハスキーボイスで挨拶をされたのが自分だと気がつくのに数秒かかる。

「あ、こんにちは」

 かろうじてそれだけ返した。無視するわけにもいかない。一つしかない狭いエレベーターに二人で入った、息苦しい。

「スキヤキですか?」

 買い物袋から飛び出たネギを見て男が言った。しかし残念ながらハズレ。味噌汁の具にするだけだ。

「はい、そうなんです」

 否定するのも面倒なのでそう答えた。

「いいなあ、手料理。こんな綺麗な奥さんに」

 ねっとりとした視線が絡みつく、ノースリーブから出た腕に男の鼻息がかかり鳥肌が立った。

「いえ、そんな」

 ガタンッ! という大袈裟な音と共に二階に到着した。こんな事なら階段で上がれば良かったけど照明の切れた薄暗い階段が私は苦手だった。

「それじゃあ……」

 そそくさとエレベーターを降りた背中にポツリと呟いた男の声が私を追い越して行った。

 バイバイ優香ちゃん一一。

 男は確かにそう言った。