「はじめまして、荒川宏美です」

 先日の飲みからまだ一週間、白井から誘われて向かったのはいつものチェーン居酒屋ではなく。オシャレなイタリアンだった。そして、白井の横には二十代と思しき若い女性が座っている。

 荒川宏美と名乗ったその女性はいわゆる美人といった感じではないが色気のある、有り体に言えばエロい女だった。シャツのボタンがはち切れそうな胸とは対照的な細い足が短いスカートから伸びている。茶色い髪はキレイに巻かれていて、その雰囲気とはギャップのあるアニメ声が妙に耳についた。

「どうも、新田順平です」

 白ワインで乾杯すると、白井が彼女について説明してくれた。どうやら白井の会社の社員で、先日はじめて大口の契約をまとめてきたらしい。今日はそのお祝いで予約困難なこの店でもう一人の社員と三人で飲む予定だった、ところがそのもう一人が風邪で会社を休んだ、当然飲み会になど来られない、しかしコースで予約を取ってしまい当日キャンセルもできない。他に都合がつく人間も社内におらず順平に白羽の矢が立った、と言う訳だ。

「急なお誘いで申し訳ありません」

 白井が恭しく頭を下げる。

「とんでもない、こんな綺麗な女性とお酒を飲めるなんてラッキーですよ」

 タダ酒、タダ飯、いい女つき。そう言えば若い女性と話す機会なんてここ何年もない。会社にはアラフィフのババアしかいないし。もちろん愛人なんてできた試しがない。

「あ、さりげなく褒めてくれました?」

 荒川宏美は身を乗り出してじっと見つめてきた、吸い込まれそうな瞳に思わず目を逸らす。

「いえ、思ったことを言ったまでで、その」

 しどろもどろしてしまう、これじゃあまるで中学生だ。

「お気に召しましたか? 彼女、独身ですよ」

 冗談だか本気か分からないトーンで白井が言ったが隣の彼女も満更でもなさそうな態度だ。

「いやいや。僕は既婚者ですし、子供も」

 下っ腹のでた中年女と目の前に座るエロい女が生物学的には同じメスとは思えなかった。

「いい男はみんな既婚者なんですよね、女は嗅覚が鋭いから」

 いい男、まさか自分の事か、さらっと言われて頭が混乱したが彼女は何事もなかったようにワイングラスを傾けている。

 料理が次々と運ばれてきて酒も進んだ、食べたことのない料理にワインがどんどん空いていく、チラッと見えたワインの価格表の桁が一瞬、見間違いかと思ったがどうせ自分が支払うわけじゃないので思考を停止させた。

「ちょっと失礼」

 一通り料理が運ばれてきたタイミングで白井が携帯片手に店を出て行った、やはりガラケーだ。

「珍しいですよね、今どきガラケーも」

 荒川宏美に話しかける、もうすっかり打ち解けていて、いつの間にか順くんなどと呼ばれて鼻の下を伸ばしていた。

「そうですよね、それより」

 彼女は白井の話はあまり興味がなさそうにして別の話題を持ちかけてきた。それは主に順平の仕事の話だったが、正直若い女性が聞いて感心するような業務内容ではないだろう。

「今どきって感じですよね、このインターネットの時代に」

 一昔前は商店街の飲食店やスーパー、美容室の宣伝媒体といえば折り込みチラシや駅前で配るティッシュ、フライヤーだった。スーパーは毎週のように何万枚とチラシを作っては新聞に折り込んでいた。スマホもパソコンもない時代、それが唯一の情報源だった主婦たちは朝刊に挟まれた大量のチラシを食い入るように吟味して、少しでも安い店に足を運んだ。

 しかし、個人がスマートフォンで調べる事ができるようになってからは企業の広告戦略も方向転換する、実際、コストも費用対効果もインターネットの方が圧倒的で、さらには紙を使わないのでエコにもなると謳われては、もはやなす術はない。

「そうですかねえ、うちは、あ、一人暮らしなんですけど、新聞は取ってないので折り込みチラシは見られないんです」

 最近の若者で新聞を取っている人の方が珍しい、順平は「ですよね」と頷いた。

「でも、ポスティングって言うんですか、入ってますよね、チラシ、あれ見るの好きなんですよ」

 チラシを新聞に折り込むのはもちろんコストが掛かる、地域に寄って料金は様々だが決して安い額ではない、一方でポスティングは作ったチラシを自分でマンションや一軒家のポストに投函するので無料だ、ポスティング専用の業者もあり、コスト的には新聞折り込みよりも安い。しかし、不良社員やアルバイトに当たるとちゃんとポストに投函せずにゴミ箱に捨ててしまわれるなんてリスクもある。

「へえ、珍しいですね」
「そうですか、それに不動産業なんていまだにチラシの投函する大手たくさんありますよ」

 うん、それは知っている、自動車業界なんかもそうだ、しかし――。そんな大手の仕事はうちのような零細企業には当然回ってこない。

「まだ必要としてくれる企業もあるって事ですね」
「そうですよ、素敵な仕事だと思います」

 ああ――。なんていい子なんだろう。若いのに礼儀もしっかりとしていて、年上の敬意も嫌味にならない程度に自然と滲み出ている。話を引き出すのが上手でついペラペラと喋ってしまう。なにより、彼女は無意識なのだろう、それともやはり重いのだろうか。前屈みになった彼女の豊満なバストは、テーブルの上でひと休みするかのように鎮座していた。

 視線が下がらないように注意する、女性は見られている事が分かると以前テレビでやっていた。

「すみません、ちょっと会社に戻らなくてはならなくなりました」

 白井はガラケー片手に席に戻ってくると、申し訳なさそうに頭を下げた、残念だが仕方ない。楽しい時間もここまでか、と、あからさまにガッカリした。

「二人はまだ飲んでいってください、帰るにはまだはやいでしょう」
 順平の心を見透かしたように白井は満面の笑みで言った。

「はーい、お仕事頑張ってくださーい」
 荒川宏美も異論なしのようだ、と言うことはこれからは二人きり……。突如訪れたチャンス、幸運、凝光を神に感謝した次の瞬間、さっと血の気が引いていくのを感じた。

 支払いはどうする――。

 財布の中身など確認しなくても、千円札が二枚しか入っていないことは分かっている。白井に帰られてしまったら無銭飲食になってしまう。

「すみません、順平さんちょっと」

 頭をフル回転させて、なんとか打開策を思案していると、すっかり帰り支度をした白井に声をかけられた、そのまま出口まで誘導される。

「本当にすみません、でもせっかくの彼女のお祝いなので、もう少しだけ付き合ってあげてください」

 それだけ言うと白井は財布の中から札を全部抜き取って順平のポケットに突っ込んだ。

「お釣りはタクシー代にしてください、では」
 呆然と白井を見送った順平はすぐにポケットに入った札を数えた。

「三十六、三十七、三十八万……」

 一ヶ月の給料よりも多い諭吉、順平の小遣いで言えば約三年分が手の中に収まっていた――。

「なになに? 男同士の秘密の会議ですか」

 ふらふらと席に戻ると荒川宏美が上目遣いで話しかけてきた、気のせいだろうか、先ほどよりも綺麗になった気がした。

「あ、ああ、まあ、そんなところです、それより荒川さん、なんか綺麗になりましたね」

 酔いと大金が財布に入っている余裕からか順平は軽口を叩いた、セクハラと思われるかと思ったがどうして、彼女は頬を染めて下を向いた。

「――たんです」
 ボソリ呟くが聞き取れない。

「へ?」
「二人きりになるから、急いで化粧直ししたんです、そんなに厚化粧ですか?」

 二人きりになるから、だと。それは自分を男として意識しているという事か。まさか、そんな馬鹿な。

「いえ、全然、なんか少し合わない間に綺麗になったのかと思いまして」
 酒が進むと口も滑らかになる。

「やだー、そんな事ばっかり言って、女の子口説いてるんでしょ?」
 前のめりになってジッと目を見つめてくる、今度は逸らさないで見つめ返した。

「口説きたいのは君だけだよ」
「ほんとに?」
「ああ」

 なーにが「ああ」だ、自分で言ってて歯が浮きそうだったが回り出した口は止まらない。

「でも、奥さんも、子供だって……」
 順平を見つめるその瞳は少し潤んでいて、間接照明が反射してキラキラと光っているように見えた。

 もう、数十年間忘れていたような感情。好きな女の子ができて心臓が飛び出してしまいそうなドキドキ感。全てを投げ打ってでも彼女を手に入れたい、そんな想いに支配されていった。

「もう、離婚するんだ」
 あながち嘘でもない、まさか白井と共に殺そうとしているなんて言えない。

「あ、やっぱり、白井さんが言ってた通りなんだ」
「え?」
 すると彼女はテーブルの上に額がつきそうな程、顔を近づけて「ごめんなさい」と謝罪した、胸が潰れて苦しそうだ。

「え、え?」
 何か嫌な予感がした。

「偶然じゃないんです……」

 荒川宏美は今日の飲み会が仕組まれた物だと告白した、仕組まれた、なんて言うと人聞き悪いが、要するに社長である白井に飲みの席で「誰か良い男紹介してくださいよ」と絡んだところ、親戚同士の集まりで撮影した集合写真を見せた。順平を指して「この人どお?」と言った白井もどうかと思うが、彼女はその写真に映った順平を見て一目惚れ、既婚者でも構わないから紹介してくれと頼んだらしい。

 一目惚れ? 自分に?

 と、いう最大の疑問に目を向けることはなかった、順平は頭を人生最大にフル回転させて荒川宏美をお持ち帰りする算段を立てる、幸い資金は豊富だった。

「ごめんなさい、迷惑ですよね」
 大きな瞳から涙が溢れた、そんなに自分の事を……。様々な疑問はすべて振り払い彼女の目元を親指で拭った。

「そんなことないよ」
 セリフだけ聞いたらトレンディ俳優のそれだったが、自分の世界に没入した順平は止まらない。

「はじめて見た瞬間カミナリに打たれた、君に惚れた」
「ほんとに?」
「ああ」

 結局、その店のお会計は十五万円、もう一軒梯子した後に自然な流れでラブホテルに泊まった。結婚してから十七年、順平にとって人生初の不倫はその後の人生をも左右する大きな分岐点となった。