この計画を白井直也が思いついたのは妻の麻里奈が姉夫妻の殺害を自分に相談してきた時だった。やはり、この女は普通ではない。そのルックスと明るい性格に世間の殆どの人間は騙されているが、麻里奈の本質は鬼畜、目的の為には手段を選ばない女だった。

 全てを手に入れないと満足できない、富、名声、承認欲求と自己評価ばかりが高く、どんな手を使ってでも手に入れようとする執念はもはや異常だった。彼女が家事をしないのはできないからじゃない。旦那が自分の為に家政婦のように動き回るのを姫のように何もしない自分に酔っているのだ。

 ネイリストなんて金にならない仕事をしているのも、家賃だけ高くて特段利便性も良くない南青山に住んでいるのも、旦那をこき使うのも、全ては自分を中心に地球が回っていることを実感するためのアイテムに過ぎず、アクセサリーのような役割でしかなかった。

「終わりましたか?」

 麻里奈の妹である理沙がリビングに入って来たので、声をかけると彼女は満足そうに頷いた。いまからちょうど一時間前、サウナ室に閉じ込められた理沙を救出したのは直也だった。激昂する彼女を宥め、すかして何とか落ち着かせると。直也は理沙に取引を持ちかけた。

「完全犯罪に協力してくれませんか?」

 たった今、実の妹に殺されかけた理沙は直也の提案にあっさりと頷いた。それどころか最後に施錠をする役割を自ら買ってでた。誰が閉めようと計画に支障はきたさないので直也は了承した。

「傑作だったわ、麻里奈の最後は、あの顔、ククッ」

 とは言え、血を分けた本当の妹を殺害することに躊躇いがない理沙に直也は戦慄した。この姉妹はやはり普通ではない。

「本当に、大丈夫なんですか?」

 新田順平は真っ青な顔で心配そうにリビングをうろうろしている。そう、これが普通の人間の正しい反応だろう。

「順平さん、落ち着いてください、彼女は自殺したんです」

 直也はカウンターキッチンに向かい、順平のために紅茶を入れた、兄の寿也が好きだったアールグレイ。

「で、でも」

 順平は座ってティーカップに口をつけたが、震える手で上手く持てずにカチャカチャと音を鳴らしている。

「ねえ、教えてよ、あなた達の企み」

 一方で、冷静な理沙は優雅にカップを傾けた、もう全てを話しても問題ない。直也は麻里奈が新田夫妻を殺害して娘たちを強奪する計画を立てていた事を明かした。

「ほらね、言ったでしょ」

 理沙は順平に向かって勝ち誇るように言い放った。

「で、どうしてあなたは麻里奈を裏切ったの? なんとなく想像はつくけど」

 おそらくそれは麻里奈と言う人間性に嫌気がさした、そんな読みだろうと直也は推察する。
 
「あの女は、兄の仇なんです……」


 五歳年上の兄、寿也は直也の自慢の兄だった。優しくてスポーツ万能、悪戯ばかりして両親に怒られていた直也をいつも庇ってくれた。

 寿也が婚約相手として両家の顔合わせで連れてきたのが麻里奈だった。美しくて、物静かな彼女を見て寿也にお似合いのいい嫁さんだな、とその時はそんなありきたりな感想しか抱かなかった。

 会社もすっかり軌道にのり、そろそろ自分も寿也のように結婚、ゆくゆくは子供でもと考え始めた時に同窓会で昔好きだった女の子と再開した。兄と同じように同窓会で意気投合、結婚の流れもわるくないなと考えていたある日、その悲報は突然だった。

 寿也が死んだ――。
 
 うっかり婚約者にアレルギーの事を伝え忘れた寿也に、麻里奈は蕎麦茶を出した。二日酔いの寝起き、カラカラに乾いた喉を潤すために一気に煽った寿也はアナフィラキシーショックで死亡した。

 誰も彼女を責める事などできなかった、これから婚約を控えた花嫁が自らの不注意。いや、知らなかったのだから不注意ですらない。フィアンセを失ったそのショックは計り知れないだろう。

 通夜、葬式、初七日、四十九日。もともと細身の麻里奈がみるみる痩せ細っていく様子を見かねて声をかけた。

「元気出してください」

 毒にも薬にもならない、そんな浅いセリフだったが彼女は笑顔になり「ありがとう」と答えた。四十九日が終わるとしばらく集まる事はなくなる。彼女の事が心配だったが自分にはどうする事もできない、そう思っていた矢先に麻里奈から連絡がきた。以前連絡先は交換していたらしい。

「寿也さんのお話が聞きたいんです」

 付き合って半年、中学校の三年間しか寿也のことを知らない、と言う彼女は小さい頃や、大人になってからの話を聞きたいと、直也に頼んできた。

 その気持ちが嬉しかった、死んだから終わり、次に向かって生きていこう。そんな冷たい女性じゃない事が分かって安心した。二つ返事で了承すると、それからは度々食事をするようになっていった。みるみるうちに回復していく彼女をみて、寿也へのせめてもの供養になると信じていた。

 異変、いや。小さな疑問を感じたのは蕎麦屋で軽く一杯飲んでいる時だった。直也には蕎麦アレルギーはない、それどころか大好物だったので蕎麦屋でチビチビと酒を飲んで、シメにざる蕎麦を食べるのが趣味だった。

 しかし、蕎麦のことなど思い出したくもないであろう彼女の手前、避けてきたのだが好物を質問された時にうっかり答えてしまった。

「そんな腫れ物のように気を使わないでください」

 確かに蕎麦屋なんて街中至る場所にある、目を瞑って生きていくわけにもいかないだろう。

「私も、お蕎麦好きですし」

 そう言って笑った彼女に少しづつ惹かれていく自分に直也は気がついて蓋をした。

 ざる蕎麦を二人で食べ終えた頃に、店員が蕎麦湯を持ってきた、少なくなった麺つゆを蕎麦湯で割って飲む、これが直也のルーティンだ。自分に注ぐ前に麻里奈の蕎麦猪口に蕎麦湯を傾けようとした。

「あ、ごめんなさい、蕎麦湯苦手なんです」

「あ、そうですか、失礼しました」

 蕎麦は好きだが蕎麦湯は飲まない人は珍しくもない、実際にその時には何も思わなかった、しかし家に帰り冷蔵庫からケース単位で購入している蕎麦茶のキャップを外して飲んでいる時にふと疑問がよぎった。
 
 ――蕎麦湯が苦手な人間が蕎麦茶を飲むのか?

 蕎麦アレルギーの寿也の家には当たり前だが蕎麦茶などないだろう、つまり購入したのは麻里奈、しかし彼女は蕎麦湯も飲まない。蕎麦茶はコンビニだって取り扱いがない所もあるくらいマイナーな商品、現に直也はネット通販でまとめ買いしている。

 馬鹿な、蕎麦湯は苦手でも蕎麦茶は好き、そんな事もあるだろう。あるのか?

 バクバクと心音が高鳴る、一度疑ってしまうと全ての行動が怪しく感じた。ハッっと閃いてTwitterを開いた、自分では呟かない、暇な時に流し見する程度だったが、寿也は年中呟いていた。なにか、ヒント。証拠になるような物が残されていないか。フォローしてある直也のアカウントを呼び出した、まだ履歴は残っている。一番、最初から見始めた。
 
 今日のお昼は唐揚げ定食、美味なり。
 飲みすぎて二日酔い、仕事きつー。
 彼女が可愛すぎる。プロポーズ成功!

 食事にはご丁寧に写真が添えられていた、他人が見たらなんの興味も湧かないような内容が続いたが、直也はまるで寿也がそこにいるような感覚を覚えて涙した。一人感傷に浸り画面をスクロールしていると、一つの画像で指が止まる。

 致死量のそば、ピンチ!

 おそらくはコンビニで買ったであろう、ざる蕎麦が二つ、テーブルの前に置かれていた。ハッシュタグには蕎麦アレルギー。

 日付を確認すると顔合わせから三カ月ほど経っていた。そして寿也が死ぬ丁度一週間前。前後の画像を見てもこのテーブルが自宅である事は明白、つまりこの家は寿也の家だ。

 しかし寿也がざる蕎麦を買うわけがない、つまり誰かが知らずに購入してしまった。それを致死量ピンチとユーモア混じりにツイートしたのだろう。では誰が買ってきたのか? 事情を知らない友人かもしれない。

 直也は画像をクリックして画面いっぱいに表示した、ざる蕎麦の横に伏せて置いてあるスマートフォン、人差し指と親指で拡大する。キラキラにデコられた特徴のあるスマホケース、MARINAとラインストーンで作られたそれは、先ほどの蕎麦屋で麻里奈が持っていた物と寸分違わず同じだった。


 麻里奈は蕎麦アレルギーの事を知っていた一一。



「間違いないわね、麻里奈ならやりかねない」

 理沙は深くため息をついて答えた。順平はイマイチ状況が把握できていないのかオロオロとしている、カップの紅茶はもう入っていない。

「おかわり持ってきます」

 直也は話を中断して席を立つ、薬缶に火をかけてその場でタバコに火をつけた、換気扇を強にして煙を吐き出す。

「タバコ吸うんだ? 一本ちょうだい」

 いつの間に横にいる理沙が直也を見上げた。

「どうぞ、やめたんですがね、無性に吸いたくなりました」

 麻里奈が残していったタバコを理沙に差し出した。

「分かる、わたしも子供できてからはやめたんだけど」

 理沙は火をつけると思いきり吸い込んだ、一拍おいてから煙を吐き出すと、チラリと直也を一瞥する。

「復讐?」

 短く、それだけ聞いてきた理沙に直也は目で頷いた。彼女もそれで理解してくれたようだ。姉妹だからこそ、小さなころからずっと一緒だった姉だからこそ分かるのだろうか。それ以上、彼女は何も聞いてこなかった。

 すべてを知り、婚約寸前までいった彼女と別れて麻里奈と結婚したのは復讐のため、愛する人間に殺される苦しみを味わってもらう為だったが。結局、彼女にとって直也はアクセサリーの一つに過ぎなかったのかも知れない。だからこそ最後を妹の理沙に任せたのは必然だった。
 
 たった一人の姉、自分が見下していた人間に殺されるのは、きっと彼女に深い絶望と恥辱を与えたに違いないのだから。