キスをするだけ。それも頬っぺたに軽く。
 瑞希は鏡の前で自己暗示をかけ、朝から大きくなった鼓動を押さえ込もうとする。

「……よしっ。大丈夫、たかが頬っぺたじゃない。外国じゃ挨拶みたいなものだし」

 これは断じて言い訳なんかではない。
 意味合いが日本と外国で違うのは事実。
 日本にはいるけど、キスする瞬間だけ外国にいると思えばいい。

 頬を赤く染めながら瑞希は学校へと向かい始めた。

「誠也、おはよう」

 いつものように駅前での待ち合わせ。
 誠也が先に待っていて、あとから瑞希が来る。これが朝の日常だった。

「おはよう、瑞希」
「あ、あのね、ちょっとだけお願いがあるんだけど──」

 一気に跳ね上がる心音。
 誠也を見るだけで、せっかくかけた自己暗示が解けてしまう。
 伝えないと伝わらない、そんなことは分かりきった話。
 しかしその先の言葉が出てこない。まるで瑞希の意志を拒絶するように、言葉は心の内側に沈んでいった。

「お願い? 僕で出来ることなら聞くよ」
「ううん、やっぱりいいわ。それより早くしないと遅刻するじゃないの」

 ただの気まぐれなのか。
 誠也は言葉の意味を深く考えず、瑞希の手を優しく握り学校への道を急いだ。

 瑞希と付き合ってから──とは言っても偽りではあるが、一週間近くが経とうしている。変わったことといえば、男子から悪意ある眼差しを向けられることぐらい。

 仕方がないこととはいえ、やはり精神的には少しだけ堪える。
 が……愛のメモリアルノートを全校放送されるよりはまだマシ。

 奪い取るにしても隠し場所など分かるはずもなく、女子から強引に奪うなど誠也にはとても無理。
 しばらくは偽りの恋人を続けるしかない──悪意ある視線を除けば、今の生活はそこまで嫌いではなかった。

「そういえば、瑞希のこと知らなすぎるかな。いくら偽りとはいえ、少しぐらい興味を持たないとウソだとバレちゃうよね」

 能天気なのか、黒歴史の心配より瑞希の心配をする誠也。
 もしかしたらお人好しすぎるのかもしれない。

 昼休みか、放課後か、少し瑞希に質問しようかと考えていると、朝のことが急に気になり始めた。