午前八時二六分頃、昇子達の通う鴎塚中学三年三組の教室。
「昇子さん、あの通信教育で悲惨な目に遭ったみたいだね。ワタシも欲しいなぁって思ったんだけど、ホームページからして詐欺の香りがしたから引き留まったの。問い合わせ先が書かれてなかったから、逃げられるかもって感じたの」
 学実は登校してくるなり昇子にこんな風に伝えてくる。彼女のホッとしている様子が朗らかな表情からよく分かった。 
「しょこら、世の中こういうこともあるって」
 帆夏は爽やか笑顔で慰めるように昇子の肩をポンッと叩く。
「……そっ、そうだね」
昇子は昨日あれからあった出来事を話そうかなっと思った。けれど、信じてもらえるわけは無いだろうと感じ、黙っておくことにした。
 今日の一時間目は家庭科。三年生が今学習しているのは幼児の生活と家族に関する分野だ。
「このページを捲ると可愛らしい厚紙工作が迫り出してくる飛び出す絵本、皆さんも幼い頃に楽しんだと思います。遊び心があって懐かしいでしょ?」 
 小顔でぱっちり瞳、ほんのり茶色な髪をフリルボブにし、お淑やかそうな感じの四十代女性教科担任はそれを教卓からクラスメート達に向けて見せた。
あの教材、厚紙工作どころか、生身の人間が、飛び出して来たんだけど。
「灘本さん、どうかしましたか?」
「……あっ、いえ、なんでもありません。すみません」
 昇子はロダンの『考える人』のような格好をしていたため、教科担任に心配されてしまった。昇子の席は教卓に近いため目立ちやすいのだ。
二時間目は体育。体操服については今回から完全夏用。男女とも同じ柄で、学年色黄色のラインと校章の付いた白地半袖クルーネックシャツと青色ハーフパンツだ。今日は男子は体育館で器械運動、女子はグラウンドでハンドボールをすることになっている。
女子体育三年担当の先生は四角顔ぱっちり瞳ショートヘアー、背丈一七〇センチ近い三十代前半の爽やか系だ。強面筋骨隆々な男子体育三年担当の先生とは対照的に、特に厳しく注意してくることもない優しい先生でもある。
準備運動のランニング。昇子、森優、帆夏、学実の仲良し四人組はそれをいいことに、いつもと変わらずみんな同じようなゆっくりペースでおしゃべりしながらダラダラ走っていた。
「うちんちの庭に生えとうびわと梅、今年ももうすぐ収穫やからばり楽しみやー」
「梅は美味しいよね。私、梅干しは嫌いだけど、甘露煮とかジャムとかキャンディーとかは大好きだな」
「青梅を生のまま食べると、果実に含まれる青酸配糖体のプルナシンやアミグダリンが、同じく果実中のエムルシンと呼ばれる酵素と、体内の腸内細菌が持つβ‐グルコシダーゼとの働きによって加水分解されて猛毒のシアン化水素、いわゆる青酸が発生して中毒症状を引き起こす場合もあるよ。よほど大量に食べない限り大丈夫だけどね」
「まなみがさっき言うたこともううちの耳からすぅと抜けていったわ~」
「学実よくそんなの覚えられてるね。さすが。ねえ、森優ちゃんは梅は梅干しと甘露煮とジャムとキャンディー、どれが一番好き?」
「わたしは……うーん、甘露煮かなぁ」
 昇子の質問に、森優は少し悩んでからゆっくり口調で答えた。
その直後、彼女の身に異変が――。
「森優ちゃぁん、大丈夫? 熱中症?」
「もゆ、大丈夫? 頭打ってない?」
「森優さん、しっかりして!」
急にその場にパタッと倒れこんでしまったのだ。昇子、帆夏、学実の三人は中腰になり、森優の顔色を心配そうに見つめる。いつもはきれいなピンク色をしている唇が白っぽく変色していた。頬も青白くなっていた。
「あっ……みんな」
森優は幸いすぐに意識を取り戻した。
「大丈夫?」
 昇子は心配そうに話しかけてあげる。
「うん、平気、平気。ちょっとくらっと来ただけだから」
 森優はこう答えて、すぐに自力でゆっくりと立ち上がった。
「よかったぁ。でも、保健室には行った方がいいよ」
 昇子は真顔で強く勧める。
「保健委員さん、安福さんを保健室へ連れて行ってあげてね」
 女子体育の先生はこう呼びかけた。
「その子今日欠席です」
 すると女子生徒の一人が叫んで伝える。
「あらまっ」
 女子体育の先生は苦笑い。まだ出欠確認をする前だったので気付けなかったのだ。
「先生、私が連れて行きます。あの、森優ちゃん、一人で歩ける? おんぶしよっか?」
 昇子は少し緊張気味に、森優に話しかける。
「なんか悪いけど、その方が楽そうだし、そうさせてもらうよ」
 森優は元気なさそうな声で伝えた。
「しっかり掴まってね」
昇子は森優の前側に回ると、背を向ける。そして少しだけ前傾姿勢になった。
「ごめんね、昇子ちゃん」
森優は申し訳なさそうに礼を言い、昇子の両肩にしがみ付いた。
「いいよ、いいよ。気にしないで。んっしょ」
 昇子は一呼吸置いてから森優の体をふわりと浮かせる。
おっ、重ぉ~い。
 途端にそう感じたが、もちろんそんな失礼なことは口に出さない。
「昇子ちゃん、本当にごめんね、迷惑かけちゃって」
「べつにいいよ、気にしないで」
森優ちゃんの胸、また一段と大きくなったような……。
 むにゅっとして、ふわふわ柔らかった。
 森優のおっぱいの感触が薄い夏用体操服越しに、昇子の背中に伝わってくるのだ。
急ごう!
 同性だけどなんとなく罪悪感に駆られた昇子は早足で歩こうとする。けれども足がふらついてしまい結局ゆっくりペースに。今いる場所から保健室までは距離にして百メートルちょっと離れていた。昇子は森優を落とさないように、慎重に歩き進んでいく。
「灘本さん、友達思いね」
 女子体育の先生は深く感心する。
「これは百合展開期待出来るかも♪」
「昇子さん、頑張って」
 帆夏と学実は温かく見送ってあげた。
       *
「失礼、します。生頼(おうらい)先生、あの、この子が、体育の授業中に、貧血で、倒れました」
 昇子はやや息を切らしながら保健室の、グラウンド側の扉をそーっと引いて小声で伝え、森優を背負ったまま中へ入った。
「生頼先生、失礼しまーす」
 森優は元気無さそうに挨拶する。
「いらっしゃい。灘本さん力持ちね」
 養護教諭、生頼先生は二人を爽やかな笑顔で迎えてくれた。ぱっちり瞳に卵顔。さらさらした黒髪を黄色いリボンでポニーテールに束ねている三〇歳くらいの女性だ。今保健室には、この三人以外には誰もいなかった。
「じゃ、下ろすよ」
「ありがとう」
 昇子は森優をソファの前にそっと下ろしてあげた。
森優はソファにぺたりと座り込む。
「安福さん、これをどうぞ」
生頼先生は、保健室内にある冷蔵庫から貧血に効くという栄養ドリンクを取り出し、森優に差し出した。
「ありがとうございます」
 森優はぺこりと一礼してから丁重に受け取る。瓶の蓋を開けると、ちびちびゆっくりとしたペースで飲み干していった。
「安福さん、今日は早退した方がいいわね」
「いえ、わたし、少し休めば大丈夫ですよ」
 森優は元気そうな声で答えてみるが、
「ダメだよ森優ちゃん、今日は早退した方がいいよ」
 昇子はすぐに引き止めた。
「でも、授業休んじゃうと、今日習うところ、ノートが取れないし」
 森優は困惑顔で言う。
「私が取ってあげるから、心配しないで」
「大丈夫かなぁ?」
「大丈夫だって。私、今日は授業、ちゃんと真面目に聞いてノート取るから」
「本当?」
「うん、本当」
「灘本さん、心配されてるのね」
 生頼先生はにっこり微笑む。
「まあ、私、普段授業中寝てしまうことが多いですし」
 昇子はてへっと笑った。
「今日の給食、わたしの大好きなびわゼリーが出るの。食べたかったなぁ」
「それも私が届けてあげるよ」
「本当!? 嬉しい! 頼むよ、昇子ちゃん」
「任せといて」
「二人ともとても仲良いわね。安福さんは、貧血になったのは今回が初めてかな?」
「はい。わたし、テスト期間中は睡眠時間削って勉強してて、水泳の授業も近いからダイエットしようと思って、ここ一週間は朝食もほとんど食べてなかったからかな?」
 森優は照れ気味に打ち明けた。
「原因は非常に良く分かりました。安福さん、朝食を抜くのはダメよ。保健や家庭科の授業でも小学生の頃から再三言われてるでしょ」
 生頼先生は爽やかな笑顔で忠告する。
「はい。今後は気を付けます。もうあんなしんどい思いはしたくないので。それにわたし、食べること好きなので、それを我慢したことでストレス溜まっちゃったのも良くなかったですね」
 森優はてへっと笑った。
「安福さんの身体測定のデータ見ると標準体重よりちょっと少ないから、少々増えたってダイエットはする必要ないからね。敏感になり過ぎて太ってないのにダイエットしようとする子が本当に多くて……」
 生頼先生はパソコン画面を見つめながら、ため息まじりに助言した。この学校の生徒達全員の身体測定データが、専用ソフトに保存されてあるのだ。
「凄い! データベース化されてるんだ」
 昇子は興味を示し、画面に顔を近づけた。
「あんっ、昇子ちゃん。見ちゃダメェッ!」
 森優はとっさに背後から昇子の目を覆った。
「あっ、ごっ、ごめん森優ちゃん」
 昇子が謝罪すると、森優はすぐに手を放してくれた。
「灘本さんも、自分の体重お友達に知られたら嫌でしょう?」
 生頼先生は昇子が目を覆われている間にデータ画面を閉じてあげた。
「確かにちょっとは。ごめんね森優ちゃん、私、もう戻らなきゃ」
 昇子は森優にぺこんと頭を下げて謝り、保健室から出て行く。
その頃、昇子のお部屋では、
「ショウコちゃん、あのキュートな女の子ととても仲良さそうだね。きっと百合フレンドだね」
「オレっちもそう思う。エッチはもう済ませたのかな?」
「おれさまはごく普通の親友関係だと思うぜ」
「ぼくもーっ! 昇子お姉ちゃん、彼氏はまだいなさそうだね」
「わらわは、幼馴染同士の関係だと思います」
 教材キャラ達がみんなテキストから飛び出しベッドの上に座り込んで、テレビ画面を眺めていた。昇子の学校での様子を、モニター越しに観察していたのだ。
「それにしてもこのグッズはベリーワンダフルインベンションだね。上空からのイメージだけじゃなく建物内部のイメージが見られるなんて」
 サムはとある加工品に感心する。
「これさえあれば、地球上の任意の地点のライブ映像を映し出すことが出来るんだぜ。ストリートビューと、衛星カメラの合体版かな? これは洸君の発明品なんだぜ」
 玲音は自慢げに説明する。学習机の本立てに置かれていた地球儀と、テレビ端子とが一本の緑色ケーブルで繋がれていたのだ。
「ド○えもんのひみつ道具みたーい。ぼくの数学のテキストにはそんなの組み込まれてないよ」
「ヒカルシャトリエ、レオングストロームに良い物体持たせてくれたな。未来的技術だ。音声が入ってこない欠点はあるけど」
 流有十と摩偶真は羨ましがる。玲音の入っていた社会科テキストには、他に開発者安居院洸の発明品も任意のページにいくつか詰められてあるのだ。ただし普通の人、そして玲音以外の四人にも単なる白紙のページにしか見えない。取り出すことも玲音しか出来ない仕様になっている。
「あっ、あの、いいんでしょうか? 盗撮なんかして?」
 伊呂波はおろおろしながら、玲音に問いかけてみる。
「……法律的に、良くないとはおれさまも思うけどよぉ、その、昇子君の学校での様子が気になっちまってな」
 玲音は俯き加減になり、バツの悪そうに言い訳した。
 その直後、ドスドスドス。と廊下を歩く足音が教材キャラ達の耳元に飛び込んで来た。
「ショウコちゃんのマミーが来るようだね。みんな隠れて!」
 サムは注意を促す。彼がテレビの電源も切った。
 サムを先頭に他の四人も自分のテキストの中に素早く身を引っ込める。
 一番動作の遅かった伊呂波が引っ込んでから約二秒後に、扉がガチャリと開かれ、母が昇子のお部屋に足を踏み入れて来た。
「昇子ったら、また散らかしちゃって。変なコードまであるし……これ、昇子がやりたがってた教材かな? これも散らかってるってことは、ちゃんと勉強したのかな?」
 母はため息まじりながらも少し嬉しそうに呟きながら、床に散らばっていた教材を学習机の上に積み重ね、掃除機をかけて部屋から出ていった。
「マミー、重ねたら出にくくなっちゃうよ。Are you all right?」
 一階へ降りていったことが確認出来ると、サムは英語のテキストからぴょこっと飛び出す。そして他の教科のテキストを一冊ずつ分けて床に並べてあげた。
 他の四人はすぐに飛び出してくる。
「甚だ重たかったです」
 伊呂波はホッとした表情で告げた。彼女が一番下になっていたのだ。
「ショウコイルのママ、よりによって一番質量の大きそうなサ無極性分子を一番上にしていくとはね」
「ボッ、ボク、そんなに重たくないよ!」
 摩偶真に指摘され、サムはムスッとなる。
「アメリカナイズな食生活送ってるっていう設定になってるくせに」
「そんな設定ないもん!」
 サムはそう主張して、摩偶真の髪の毛を引っ張る。
「いたたたたたぁっ、やったなぁーっ、サ無極性分子」
 摩偶真はサムのほっぺたをぎゅっと抓って対抗した。
「二人とも、幼い子どもみたいなケンカはやめろ」
 玲音は穏やかな表情でなだめてあげる。
「だってマグマくんがぁー」
 サムは抓られながら言い訳する。
「鹸化はしてないぜレオングストローム。カルボン酸の塩もアルコールも生成されてねえだろ」
 摩偶真は髪の毛を引っ張られながら反論する。
「訳の分からんこと言ってないで、いい加減にしろっ!」
 玲音は二人の頭をゴチンっと叩いた。
「Ouch!」
「いったぁーいっ。分かったよ。やめるよレオングストローム」
「ボクも大人気なかったな」
 すると二人はすぐにケンカをやめた。二人とも玲音のことを少し恐れているのだ。
「摩偶真お兄ちゃん、サムお兄ちゃん。昇子お姉ちゃんのその後を見た方が面白いよ」
 流有十の手によってまたテレビが付けられると、教材キャラ達は再びモニター画面に食い入る。その頃、昇子のクラスでは三時間目理科の授業が始まっていた。
眠いけど、なんとか取らなきゃ、森優ちゃんに迷惑掛けちゃう。
森優のために、一生懸命シャーペンを走らせノートを取る昇子の姿に、
「ショウコちゃん、leave school earlyしたモユちゃんのために頑張ってるね」
サム達はまたも感心させられた。