あのあと、キャロルは逃げ出すように帰って行った。彼女の急な来訪によりピリピリとしていた伯爵家の使用人達も安堵のため息をついた。

(キャロル……まったく似ていなかったな)

 以前は亡くなった妻とそっくりだと思っていたが、今なら彼女の醜さがよくわかる。

 夫がある身でありながら、媚びるような態度に、まるで獲物を狙うかのような視線。そして、優しいふりをしているが、ノアをよく思っていないことがにじみ出ていた。

 ノアの顔には、作り笑いが貼りついている。可哀想に思い「ノア、具合が悪そうだよ。今日は、部屋で食べるかい?」と尋ねると、なぜかノアの代わりにキャロルが答えた。

「せっかく私がきたのだから大丈夫よね、ノア」
「はい、大丈夫です」

 ニッコリと微笑むノアは、人形のようにみえた。でも、少し前まではノアはこんな感じの子どもだったようにも思う。いつもニコニコ笑っていて、聞き分けの良い少しも手のかからない子。

 でも最近は、とても楽しそうに笑っていたから、今のノアの笑顔が偽物だとすぐにわかった。

(ああそうか、ノアは今までずっと、無理に笑ってくれていたんだね)

 おそらくアルデラが来る前まで、ノアはずっと我慢してくれていた。そんなノアに少しも気がつけなかった自分自身が恨めしい。

 妻が病気になったとき、キャロルは「姉の見舞いに」と、ちょくちょく伯爵家に顔を出していた。

 その姿を愚かな自分は『姉思いな優しい妹だ』と思っていた。ただ、今になって思えば、キャロルが帰ったあと、妻は具合が悪くなり、ノアは部屋に閉じこもった。

 キャロルの存在が大切な家族を苦しめていたことは明らかなのに、人を疑うことをしなかった愚かな自分は、そのことにすら気がつけなかった。

 ある日、妻に「お見舞いを断って」と頼まれた。

 意味がわからなかった。ただ、言われるがままに、妻への見舞いは全て断った。「妹の私だけでも」と食い下がっていたキャロルは、伯爵家の資金繰りが厳しくなると自然と連絡が途絶えた。

 妻の病状が悪化し、さらにお金に困ったころ、恥を忍んでキャロルの子爵家に『資金援助をしてほしい』と手紙を送ったこともあったが、もちろん返事はなかった。

 姉思いの妹など、どこにもいなかった。

 そして、伯爵家が借金を返して事業が軌道に乗った今になってノコノコと現れた。

 キャロルは、使用人達の冷たい視線や態度には気がつかないようだ。招かれざる客が、気心の知れた古くからの友人のように振る舞う姿を、クリスはひどく冷めた心で観察していた。

 キャロルの行動は少しずつ増長していき、夕方にもなると、気安く身体にふれてきた。キャロルにふれられた箇所が汚らわしいと感じた。

 観察しながら、ずっと『この女を、どうしてやろうか?』と考えていた。

 亡き妻と最愛の息子を苦しめた、この女を。まるで、自分の妻のように振る舞う、この醜い女を。

 それと同時に、人の悪意を見抜けなかった過去の愚かな自分を殺してしまいたいと思った。

(とにかく、食事を終えたら、ノアを部屋に戻そう)

 そう思っているうちに、アルデラが帰ってきた。アルデラの姿を見たとたんに、人形だったノアの顔に子どもらしい表情が浮かぶ。

「アルデラ姉様!」

 アルデラを呼ぶノアの声が『助けて!』と聞こえた。

(ああ、私はまた間違えた)

 無理やりにでもノアを部屋へ下がらせるべきだった。それ以前に、キャロルをすぐに追い出せばよかった。

(どうして、私はいつまでたっても、こうも愚かなんだろう……)

 絶望を胸の内で感じながらも、取り繕った貴族らしい言動は変わらない。

 アルデラがノアを連れて部屋から出て行った。すぐにあとを追いたかったが、そうすると、この女までついて来てしまう。

(ノア……)

 給仕をしていたメイドに「ノアは?」と尋ねると、「お部屋に戻られました」と教えられる。

 食事を切り上げ席を立つと、予想通りキャロルがついて来た。

 その後のアルデラの行動には驚いたが、彼女の行動理由はすべて『ノアを守るため』なので、これもノアを守るために必要なことだとわかり話を合わせた。

 キャロルの姿が見えなくなると、身体を寄せてぴったりとくっついたアルデラはサッと離れた。そして、合図を送るようにブラッドを見ると、ブラッドは頷きその場から走り去る。

(この二人は、本当に仲が良い)

 キャロルがいる間もお互いに視線で合図を送り合っていた。恋仲でないのはわかる。おそらく二人はノアを守るために協力しあっているのだろう。

(私だってノアを守りたい。でも、どうすればいいのかわからない)

 無力な自分を恥じていると、突然「クリス、やるじゃない」と、満面の笑みでアルデラに褒められた。

「見直したわ。この調子で、私と一緒にノアを守るのよ!」

「一緒に、ノアを、守る?」

(守れるのだろうか? 大切な家族すら守れなかった私が? 私なんかがノアの側にいてもノアを苦しめるだけでは……?)

 この全身が切り刻まれるような激しい後悔から解放されるための手段を、なぜかアルデラは知っていた。

「ノアを守るには父親である貴方が絶対に必要なんだから! これからも、しっかりと私の言うことを聞くのよ」

 不敵に微笑むアルデラは輝いていた。その姿は、まるで迷える魂を導く女神のように神々しい。

 気がつけば、クリスは両膝を床につき、すがるようにアルデラの手を握りしめていた。

「ああ、アル……」

 アルデラの愛称を呼びながら、その白い手の甲に口づけをする。

「何でも言うことを聞くよ。私の全てを君に捧げよう。この命ですら惜しくない」


 ―― だから、どうか、この愚かな私を正しい方へ導いて。