白魔術師サラサの琥珀宮から戻り、一か月ほどがたった。アルデラは自室で一人、まったりとお茶を飲んでいた。

(順調だわ)

 黒魔術により主従関係を強いられているクリスは、言われた通り事業を始めて上手くいっているらしい。

(こんなに早く成果を出すなんて、クリスって優秀だったのね)

 時間が巻き戻る前は、借金で苦労しているクリスしか見ていなかったので、商才があるなんて思いもしなかった。

(まぁ、この商売は上手くいってもいかなくても良かったけど、上手くいったほうが伯爵家にお金も入るからいいわね)

 お金があって困ることはないし、収入源は多いほうが良い。

 サラサを見張っているブラッドからは、何回か報告書が上がっていた。だいだいの人脈はつかめたようだ。「一度、琥珀宮に来てほしい」とも書かれている。

(今ならサラサの宮殿に頻繁に出入りしても、『夫の商売のため』と言いわけができて黒幕に怪しまれないわね。私の計画は全て順調……だけど)

 あえて気になることを言うなら、クリスへの黒魔術がかかり過ぎているような気がする。以前、クリスから『口づけは、私からしてもいいのかな?』と聞かれて以降、一週間ごとにクリスはアルデラの部屋を訪れてキスをする。

(あれ、心臓に悪いのよね……)

 あの整った神々しい顔が、優しい笑みを浮かべながら近づいてくると、どうしても動揺してしまう。

(いやいや、キスだと思うからおかしいのよ! これは、黒魔術の効果が切れないように重ねがけをしているだけだから!)

 どうしようもないので、この件に関しては、あまり深く考えないことに決めた。

 アルデラが気分を変えてテーブルに置かれたクッキーに手を伸ばすと、お茶のお代わりを入れてくれている若いメイドが暗い顔をしていることに気がつく。

「どうしたの? 元気がなさそうだけど?」

 若いメイドは「あ、え?」と慌てたあとに「なんでもありません!」と言ったけど動揺しすぎて、ティーポットを取り落した。

「も、申し訳ありません! アルデラ様、お怪我は!?」

「私は大丈夫よ。それより、何かあったの?」

 若いメイドはしばらく躊躇ったあとに、「私が悪いんです……」と悲しそうに微笑んだ。

「私なんかが、コーギル様を慕っても、どうしようもないのに……」

「え? コーギルって……護衛騎士のコーギルのことよね?」

 メイドは恥ずかしそうにコクリと頷く。

「もしかして、コーギルに何かひどいことをされたの?」

 メイドは「とんでもないです!」と言いながら首を振る。

「コーギル様は、とてもお優しい方です。私に会うたびに『可愛いね』って褒めてくださったり、仕事を手伝ってくださったりしたので……その、私が不相応にも勘違いしてしまって……」

 今にも泣き出しそうな顔を、メイドはうつむき両手で覆い隠す。

「私だけじゃなかったのに……。ただコーギル様は、皆にお優しいだけで……。恥ずかしいです」

 メイドの姿が、以前、クリスに憧れていた自分と重なる。アルデラはそっとメイドの肩にふれた。

「少しも恥ずかしくなんかないわ。褒めたり優しくされたりしたら、好きになっても仕方ないじゃない」

「アルデラ様……」

 顔を上げたメイドの瞳には涙が浮かんでいる。

「片思いも素敵な恋よ。悩んだり苦しんだりしたその経験が、きっといつか生かせるわ」

 思いつく言葉で一生懸命励ますと、メイドは少しだけ笑ってくれた。

「そうですね……ありがとうございます」

 頬を染めて切なそうに微笑むメイドは、恋の力なのかいつもより輝いて見える。

(コーギル、罪作りな男ね)

 その日から、なんとなくコーギルを観察すると、あちらこちらで伯爵家の人々と親しそうにしている姿がみれた。

(男女問わず優しくするのは良いことだけど、アンタの顔でそれをやったら、いつか刺されるわよ)

 あえてコーギルに忠告する必要もないが、ふと、切なそうな若いメイドの顔が頭を過ぎった。

(仕方ないわね)

 別のメイドと楽しそうに話しているコーギルを呼ぶ。

「コーギル、ちょっとこっちに来て」

 振り返ったコーギルは、メイドに手を振ると笑顔で駆けてきた。

「アルデラ様、何かご用ですか?」

「今から琥珀宮に行くわ。護衛をして」

「はい!」

 元気な返事と共に満面の笑みが返ってくる。

「……楽しそうね」

「はい、ここの屋敷の人達はみんな良い人ばっかりです」

「それは良かったわ」

 コーギルと歩いていると、廊下でバッタリとクリスに出会った。アルデラは淑女の礼をとる。

「クリス様、今から少し出かけます」

「どこへ?」

「サラサ様の琥珀宮です」
「そう。確かブラッドも、そこにいるんだよね?」

「はい」

「気をつけて行っておいで」

 そう言って微笑んだクリスは、アルデラの長い黒髪を指で少しだけすくった。

「でも、前みたいに外泊をしてはいけないよ。必ず今日中に帰ってきて」

 アルデラが「どうして……?」と言い終わる前に、クリスは「ノアが寂しがるから」と優しく微笑む。

「そうですね。では、今日中に戻ります」

 クリスは「いってらっしゃい」と微笑むとアルデラの黒髪にキスをした。

 クリスと別れ、アルデラがコーギルと共に馬車に乗り込んだとたんに、コーギルが「いやいやいや!」と叫んだ。

「どうしたの? 忘れ物?」
「いや、違いますよ!? なんですか、今の伯爵様は!」

「クリス様がどうかしたの?」
「どうかしたのって、ラブラブじゃないっすか!?」

「ああ、あれね」

 コーギルの言う通り、最近、クリスがやけに絡んでくるようになってしまっている。

(やっぱり、黒魔術がかかりすぎているのね)

 白魔術師は他の魔術の解除もできるはずだから、一度、サラサにクリスを見せたほうが良いかもしれない。しかし、それは先の話で、今はこのままアルデラに好意的で従順なクリスのほうが都合が良い。

「気にしなくていいわ」
「気にしなくていいって……。俺、伯爵様に、ものすごくにらまれましたけど?」

「貴方、クリスを怒らせるようなことでもしたの?」
「してませんよ!? どうして、そうなるんですか? 違いますって、アレですよ、牽制ですよ! 『俺の女に手を出すな』的な!」

 一人で騒ぐコーギルを見て、つい笑ってしまう。

「そんなわけないでしょう? まぁ、そうだとしても、少し事情があるの。私達はラブラブから程遠いから気にしなくていいわ」

「そういうもんすか?」

 アルデラは、納得できていなさそうなコーギルに、別の話題を振った。

「そういう貴方はどうなの? 好きな人いる?」

 コーギルは「あ、え? なんで急に俺の話を……」と言いながら視線をそらす。

「あら、気がついていないの? 貴方、メイド達にモテモテよ」

「あ、そうですか……」

 どこか歯切れの悪いコーギルを見て、「嬉しくないの?」と聞くと「まぁ」と微妙な返事が返ってくる。

「そう、チヤホヤされて嬉しくないなら、雇い主として助言させてもらうわ」

 コーギルは不思議そうな顔をした。

「貴方がモテようとしていないのなら、好意のない異性に期待を持たせるような行動はやめなさい。女性を気軽に褒めたり、助けたりすると、複数の相手を勘違いさせてしまうわ。貴方の場合は、顔も良いから余計に勘違いされやすい」

「それって俺のせいですか? それだけで勘違いする相手が悪くないですか?」

 コーギルは不満そうだ。

「悪い悪くないではなく、私はこういうことは、男女間の最低限の礼儀だと思うけど。……貴方、もしかして、今まで本気で人を好きになったことがないの?」

「そうですね」

「なるほど、だから勘違いさせてしまった相手の気持ちがわからないのね」

 片思いや失恋はとても苦しい。あの気持ちを味わったことがない人間に、その苦しさを説明することは難しい。

 アルデラはため息をついた。

「まぁいいわ。私は忠告したからね。本当に誰かを好きになったとき、せいぜい苦しみなさい」

「なんすか、それ……」

「すべてとは言わないけど女性の多くは、自分だけを見つめて大切にしてくれる王子様を求めているのよ。貴方みたいに、みんなに優しい王子様では満足できないわ」

 コーギルは少し黙ったあと、「アルデラ様も、そうなんですか?」と聞いてきた。

「私は恋愛には興味ないわ」

 今は王子様探しをしている暇はない。ノア殺害の犯人捜しで手いっぱいだ。

「アルデラ様は、ずるいなぁ」

 ため息をついたコーギルは、それ以上、何も話さなかった。