次に会ったアルデラは、昨日の書斎での取引など、なかったかのようにいつも通りだった。一定の距離をとりつつ控えめに微笑み、クリスのことを「クリス様」と呼ぶ。

(あれは夢だったのだろうか?)

 そんな日が続き、クリスがわからなくなっていると、書斎にアルデラが現れた。

「クリス、一週間が経ったわ」

 そう言ったアルデラは書斎机を回り込むと、遠慮なく近づいてくる。

「ちょっと、待った」

 クリスが制止すると、アルデラは小首をかしげた。

「どうしたの?」
「いや、どっちが本当の君なのかと思って」
「質問の意味がわからないわ」

 アルデラは腕を伸ばすと、クリスのアゴにふれた。そして、顔を近づけてくる。

「アルデラ、待っ」

 唇をふさがれ最後まで言えなかった。やわらかいものがふれたかと思うと、すぐに離れていく。アルデラの意思の強そうな黒い瞳が、こちらを覗き込んでいた。

(何かを、確認されている……?)

 この口づけが好意によるものではないのだと、クリスにも薄々わかっていた。

(彼女は、何かをしようとしている)

 寝たきり状態から目覚めたアルデラの行動は、まったく予想がつかなかった。

 急に実家の公爵家に帰ったと思ったら、大金を手に入れて戻ってきた。同時に巨額の持参金が公爵家から振り込まれたため、伯爵家の借金問題は解決した。

 最近では、サラサの琥珀宮に行ったかと思えば三日も戻らず、戻ってきたとたんに伯爵家で事業をはじめろと言い出す。

(わけがわからない……。でも)

 アルデラは言っていた。

 ――全てはノアを守るためよ。

 彼女の言葉を信じるなら、彼女の行動の全てはノアを守ることに繋がっているはずだ。

(この、口付けも?)

 そんな都合の良いことが、あってもいいのだろうか。

 ただ、『ノアを守るため』と言う口実を得てしまうと、アルデラにふれることを躊躇っていたことがウソのように、この口づけを簡単に受け入れてしまっている。

 あれほどまでに感じていた罪悪感は少しも湧き起こらない。大切な息子のノアを守るためならなんでもできてしまう。『これがノアを守るために必要』だと言われれば断る理由などない。

 アルデラに「クリス、事業はどうなっているの?」と尋ねられた。まだアルデラの顔が近くにある。素直に彼女は綺麗だと思えた。

「その件だけど、目星はつけたよ。伯爵家で事業をするというよりは、事業案を持ってきた商人に出資する、という形でもいいかい?」

「いいわ。なんなら事業が失敗しても問題ないわ。私がほしいのは、サラサの宮殿に出入りしても不自然ではない理由だけだから」

 まさか『失敗してもいい』と言われると思っていなかった。伯爵家が今のように没落してしまう前は、たくさんの事業に出資していた。

 比較的うまくいっていたように思うが、妻が倒れ数年が立ち、伯爵家の資金が底をつき始めると状況が一変した。

 今まで友のように付き合っていた人達が、一人、また一人とクリスの元を去っていった。側に残ってくれた数少ない人達にも、騙されたり足元を見られたりすることも増えていった。

 今に思えば、人を見る目がなかった。

 伯爵家の唯一の跡取りとして、少しも苦労せず育ってきたせいか、クリスは悪人と善人を見分ける力を持っていなかった。なぜなら、お金がたくさんあるときは、見分ける必要すらなかったから。

 教育はきちんと受けていた。領地の経営の仕方や、貴族間でのルール、上に立つ者の立ち居振る舞いなど、一般的な貴族と同じだったように思う。

 ただ、友であるブラッドには何度も「クリス、お前は優しすぎる!」と忠告は受けていた。そう言われるたびに『優しいことは、いけないのだろうか?』という疑問がよぎった。

 結果を言えば、優しいだけでは駄目だった。

 病に苦しむ妻を助けることができなかった。借金まみれになった伯爵家に残り、仕えてくれる人達に報酬で報いることすらできない。

 万人に優しく振る舞うためには、それ以上に狡猾で強くならなければいけなかった。

(私はもう何も失いたくない。同じ失敗は繰り返さない)

 この五年間、人の汚い部分を嫌というほど見せつけられた。

 もう誰にも騙されない。決して利用されない。そして、二度と同じ失敗はしない。今度こそ、必ず大切な人達を守ってみせる。

 目の前のアルデラは静かにクリスの返事を待っていた。彼女はウソをつくような人間ではない。今の自分なら、それくらいの見分けはつく。そして、アルデラはクリスが守りたい大切な人の一人でもあった。

(例え形式上とはいえ、彼女は私の妻なのだから)

 怖がらせてしまわないように優しくアルデラの艶やかな黒髪をなでた。

「ねぇアルデラ。ノアを守るためには、一週間ごとに口付けが必要なんだよね?」

 そう聞きながら彼女の毛先にそっと唇を押し付けた。

「その口づけは、私からしてもいいのかな?」

 にっこりと微笑みかけると、アルデラの白い頬が赤く染まった。

「……別に、効果は同じだから、いいけど……」

 戸惑うアルデラが可愛い。彼女はどうやら押しに弱いようだ。

 アルデラが「じゃあ、事業のこと、頼んだわよ」と言って部屋から出て行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、『もう少し、ゆっくりしていけばいいのに』と残念に思ってしまう。

(『ノアを守るために、彼女と口付けをする』というこの免罪符は……もう手放せないな)

 そして、誰にも渡す気がない。

 正直に言うと、アルデラが連れて来た護衛騎士のコーギルが、彼女に馴れ馴れしい態度をとるのが気に入らない。彼女も普段見せない表情をコーギルにだけ見せていることも気に入らない。

 そんな二人を見ると、腹の中でどす黒い蛇がとぐろを巻いているような不快感が湧き起こる。

(嫉妬だな。何が『兄と思ってくれ』だ)

 クリスは過去の自分を鼻で笑い飛ばした。

(これからは、アルデラに警戒心を持たれないように優しく近づき、少しずつ男とし意識してもらえるように仕向けていこう)

 そう決めて、にっこりと微笑んだクリスは、まるで神父のように神々しかった。