私は『アネア』という名を捨て、新しい地でひっそりと生きていた。

 いつも老婆の振りで体型が分からないよう大きめのローブを着、深くフードを被り顔を隠し手袋をして、実際には自分よりも年上の男たちをもあしらいながら毎日を過ごす。

 これも上流階級という、縛られていた生き方から逃れるため。

 おかげでここでは私を縛るものはない。
 私の過去を知る者も誰もいない。

 もともとここは、他人に深くは干渉しない者たちが集う街らしい。

 みな私を疑いもせずに老人扱いし、男たちは目もくれない。
 私はまだ若いため力も体力もあり、雑用なら普通の老人よりももちろんこなせる。

 慣れればこれほど楽なものはなかった。


 そうして毎日を過ごし、過去のことを忘れかけていたある日。

 小さな店の奥で掃除をしていた私に、ある話が聞こえてきた。

「……隣国のある貴族様は先日、若い奥方に先立たれた寂しさのあまり命を断ったんだとよ」

「あの家ももう終わりだな。世継ぎもいない彼が亡くなったとなりゃ……」

「カイト様は貴族とはいえ、とても穏やかなお方だったと聞くわ。本当にお気の毒に……」

 まさか、と思った。

 まさかカイトが、私と結婚して一度でも一緒になったあの彼が、
 自ら命を断ったなんて……

 きっと私のせいじゃない。
 私が死んだことにして屋敷を出てから、半年以上も経っている。

 争いを避け、いつも穏やかな表情で相手に合わせてばかりいた彼。
 自分では物事も決められないはずのあの彼に、そんなことが出来るはずはない。

 そう、命を断ったのは彼と名前の同じ、間違われた誰かなのだろう……

 私はそう思いながらも心の奥では諦めが生まれ、あの時別れたカイトへ芽生えた少しの罪悪感を抱えながら過ごした。