イケメンシェフの溺愛レシピ

3か月前だった。

「ハネムーン?」
「そう、店舗を改修する期間にどうかなと思って。なかなか二人でゆっくり旅行もできなかったしね」

ディナー営業前の休憩時間。次の動画撮影の件の相談という名目でまかないを食べに来た綾乃に哲也が言った。
そう言われた瞬間、食後のエスプレッソが甘くなる。新婚旅行に憧れがあったわけではないけれど、忙しい間にもきちんと哲也が二人の時間のことを考えてくれていたことが嬉しかった。

「きみが行きたい場所があれば」

哲也の問いかけに、綾乃は少し考えるふりをしてから、にっと口角を上げて言った。

「イタリア」

哲也にとっては馴染の場所で新鮮さはないかもしれない。しかし、哲也と知り合ってから料理を食べたり、話を聞いたりするうちに、イタリアという国が特別になった。そしていつか自分の足で歩いてみたい、自分の目で見てみたい、哲也が感じることを自分も一緒に、同じように感じてみたいと思うほどに。

哲也はどういう反応をするかと思ったら、驚くでも嫌がるでもなく、いつも通り、例えば次の休みに話題のお店に行こうという提案に納得するような笑顔を見せて言った。

「もちろんOK」

綾乃は、よかったと笑顔を返して、早速旅行の話を始める。

「どのくらい改装休業にするつもり?スタッフのみんなはどうするの?」
「一通り改修するから2週間くらいかな。いい機会だから有給休暇をとってもらえたらいいかなと。短期間ほかの店で勉強したい人がいれば、知人の店を紹介しようかとも思っている。それより綾乃はイタリアのどこに行きたい?」

突如話題を振られて、綾乃は返事に困る。なんとなくイタリアに惹かれてはいたものの、行ってみたい場所がたくさんあって、ここ!とひとつを挙げることはできなかった。縦に長いイタリアは南北で食事も文化も違うらしいし、もっと言ってしまえば地域ごとに個性があるのがイタリアの魅力だ。

「ローマは絶対行きたいし、ミラノもヴェネツィアも、シチリアも惹かれるわ。ジェノヴァも、ナポリも食べてみたいものがたくさんあるし」

指折り数えるよう仕草を見せながら綾乃が言うと、手伝いに来ていた智香の勢いのいい声が背後から響いた。

「イタリアに行くんですか?!」

綾乃はびっくりして肩をすくめる。

「いや、まだわからないけど、行けたらいいなと」

返答に困りつつ綾乃はなるべく小さな声で言った。そう、まだ計画段階のことなのだから。

「いいなあ、お土産リスト作ってもいいですか?こっちだと手に入らない食品とかコスメとか色々欲しいんです」

そう言った智香の、さらに背後から続々とスタッフたちの声が続く。

「えっイタリア行くの?」
「オーナーシェフが旅行で不在だったら僕たちも暇になりますよね」
「本場の味、食べてみたい~!」
「新しいワインを仕入れたいんだよねえ。ワイナリーの視察も」

いつになくコン・ブリオに活気があふれた。
スタッフたちのイタリアへの想いを感じる瞬間でもあった…が、これは新婚旅行の計画のはずなのだ。どう収束させたら…と思ったところで、鶴の一声が響いた。

「みんなでイタリアに行きマショー!!」

そう言ったのは哲也ではなかった。
振り向いた綾乃になぜここにいるのだ、と言わんばかりの視線を向けられたのは、フラヴィオ・マンチーニ。ブロンドのヘアを輝かせてどこか含みのある笑みを見せる。

「イタリアで食事をしたことのないスタッフの説明、味気ないデース!勉強のために旅行シマショー!」

ねっ、とフラヴィオにウィンクされて、そこからは想像通り。
ハネムーンだったはずの旅行はスタッフの研修という名目になり、挙句フラヴィオと智香も加わった騒がしい時間を過ごすことになったのだ。