「綾乃さん、ほんとに今月で辞めちゃうんですかあ」

コーヒーを持ってくるたびに智香は半べそをかきながらそう言う。

「泣かないでよ。ディレクター枠が一つ空くんだから、智香が出世する確率が上がるじゃない。喜んで精進しなさい!」
「それは、そうかもしれないですけどお」

綾乃さんがいなくなったら、とまた智香はグスンと鼻をならした。そのかわいらしい後輩の姿に、胸が打たれないはずがない。

本当は、綾乃は交際を終わりにしようと思っていた。婚約を破棄して、それぞれがやるべきことを精一杯やって生きていけたらいいと思っていた。
あの日カウンターに座って哲也が隣に来てくれるまで。

横顔だけでもいいから眩しい彼の仕事をする姿を、これからも見ていたい、たくさんの人に知ってもらいたいと。そのために仕事を続けようと、半ばファンのような気持ちでそう思っていた。

それは、哲也が仕事に情熱を持っていたからだ。食べ物を愛し、食べる人を愛しているのを見てきたからこそ。それを多くの人に知ってもらいたいと、そんな情熱がどんどん広がっていって欲しいと思っていた。そして哲也の隣で彼を支える、もっとふさわしい誰かがいるだろうとも。

でも、あのティラミスを見た瞬間に決心は変わってしまった。
何度も愛を伝えてくれた哲也のティラミス。私を押し上げて元気にするだけでない、特別なドルチェ。
人生で、こんなに自分を想ってくれる人はもう現れないだろうと思った。それと同時に、愛おしく思える人も、もう二度と現れない、と。
その瞬間、綾乃の覚悟は決まってしまった。仕事を辞めることにしたのだ。

「中原、引継ぎの件で相談なんだけど」
「はい!今行きます!」

チーフに呼ばれて資料を手に別室に入る。テレビ局に出社するのも残り1か月。精一杯仕事をして、きれいにこの場を去ろう。そしてこれからは、たけ久とコン・ブリオを守る哲也を支えて生きていくのだ。そういう生き方が向いているとは言えないかもしれない。それでも愛する人を支えることに、きっと新たな喜びも見いだせるだろう。そう信じている。信じているはずなのに。

チーフとの打合せを終えて午後六時。いつになく普通の時間に退勤すると、自分がものすごく孤独に思えた。目の前に広がる街は活気があって明るい。深夜にタクシーで帰宅したり、そのままテレビ局の中から世界を見渡していた自分にはうるさすぎるほど。

「ハーイ、アヤノ!」

エントランスで聞いたことのある声に怪訝な顔をして振り向くと、フラヴィオ・マンチーニが背後にいた。
フラヴィオは、何その顔、と言うように笑った。

「料理番組の収録デシタ。オカゲサマで、テレビの仕事も多いよ。ちょっと収録が長引いて疲れたけど、アヤノに会えてモウケモノ」

オカゲサマとか、モウケモノなんて日本語を使いこなすフラヴィオに綾乃はつい笑った。
そんな彼はすっかり日本になじんでいた。当初、半年ほどという日本滞在の予定は少しずつ伸びて、テレビや雑誌への出演、メーカーとのコラボレーション商品開発など、多忙な日々を送る彼は、今のところイタリアに戻る予定は立っていないのだと言う。なんともイタリア人らしい。どこにいても自由で、気ままで、それでいて確かな自分を持っている。

「あなたって、すごいわよね」

今さら?という顔をしたフラヴィオには綾乃の感情がどこまで伝わったかは疑わしいところだが、こんなふうに順応に生きる姿勢は、見習ったほうがいいだろう。

「コトブキタイシャ、するんだって?」

寿退社。そんな言葉までどこで覚えるのだろうと思いながら、生ぬるい春の夜風を頬に受けて綾乃は笑って言った。春の気配がそこにあった。

「哲也と、死ぬまで一緒にいるつもりよ。その覚悟ができたの。この仕事も大変になってきたし、体力もいつまでも続かないことも感じていたから、いいタイミングなのかなって思って」

自分に言い聞かせるように、またフラヴィオに納得してもらえるように、綾乃は言葉を選んで言った。そう、そういうことだ。いつか人生を振り返ったとき、きっとこれでよかったと思える。

「ここにいなければ、アヤノの仕事はできない?」
「それは、そうよ。テレビ局のディレクターでやってきたんだから」

番組を作り上げる。見てくれている人に届ける。喜んでもらう、楽しんでもらう、役立ててもらう。色々な情報を、テレビという媒体を通して常に発信してきた。幸か不幸か、綾乃はこれしか経験がない。

「ホントウに?」

フラヴィオに再び問いただされた瞬間、彼のその瞳の中に、そして彼を背に広い世界が視野に入る。
綾乃ははっとした。
まるで雲間から一筋の光が差し込むように、もしかしたら、と思ったのだ。