何も変化がないまま12月に入った。哲也はあれ以来、その先の話をしなかった。彼自身も店のクリスマスメニューのことやその他の仕事のことなどで忙しかったこともあり、ただ時間の都合でお互いにすれ違っていた。

そういったこともあって、綾乃は12月最初の午後休暇、コン・ブリオを訪れることにした。午前中収録の後はだいたい寝不足だが、哲也の顔を見て彼の手料理を食べるだけで元気が出る。

彼も忙しいだろうと予約はしないで出かけた。午後二時直前なら、カウンター1席くらいは空いているのだ。

店のドアを開けると、見慣れた笹井マネージャーと若いホールスタッフの内田圭太に微笑まれてカウンターに案内される。
そのとき視界に入ったのは、深緑の着物姿で髪をきれいにまとめ上げた女性。帯と口紅は深紅色でコーディネートされていて、美しかった。

「あら、こんにちは」
「こ…こんにちは」

哲也の母親と思いがけず顔を合わせた綾乃は、当然動揺する。その隣に座ってもいいものかと萎縮していると、カウンター越しの厨房内から哲也が顔を見せた。

「綾乃!連絡してくれたらテーブル席を空けておいたのに」
「ううん、忙しいだろうと思って。急に来ちゃってごめんなさいね」
「いや、嬉しいよ。ありがとう。」

2人のやりとりを眺めていた哲也の母親は言った。

「ワインのお代わりいただけるかしら~」

哲也は若干呆れたようにはいはいと返事をして綾乃に言った。

「カウンター席しか空いてないんで悪いけどうちの母親の隣でいいかな。最近、よくランチに来るんだ」
「随分な言い方ね。大事なお客様でしょう?」

母親の言葉に哲也はまた、はいはいとあしらうように返事をした。綾乃は戸惑いながらも、失礼しますと言って隣の席に腰かけた。
そしてワインが二つ用意されると、自然と綾乃と哲也の母親は乾杯する流れになった。

「お疲れのところ、ご一緒させて頂いてすみませんね」
「いえ、こちらこそ。お邪魔してしまってすみません」

目の前にそれぞれの料理が用意された。綾乃には日替わりのランチセットの前菜の魚介のマリネサラダ、哲也の母親にはメインの白身魚のトマトソース煮込みが出された。
甘くやわらかな帆立を口に入れると、少し緊張がほぐれる。その和らいだ表情を隣で見ていた哲也の母親が、静かに微笑んだ。

「ふふ、おいしいわよねえ。」

見られていたのが恥ずかしくて綾乃はつい、すみませんと言った。

「こちらこそごめんなさいね。おいしそうに食べられるから。つい見ちゃった。」

そう言って少し幼い笑顔を見せる彼女は先日の食事会よりもずっとのびのびとしているようだった。それは彼女が今、たけ久から離れて1人でこうして出かけてきているからかもしれない。自由な女性、という感じがした。
ちょうど哲也は取引先の食品会社の人の対応をしていたこともあり、女同士の会話が続いていた。

「最近、よくお邪魔させていただいているんだけど、おいしいわね。哲也の料理」

並んでカウンターに座っていることや、少しのアルコールの力も加わって、二人はいくらか気楽に話ができている。

「はい、こんなに食べ物そのものを大切にして元気をくれる料理をつくるシェフを私は知らないです!料理はもちろん、ドルチェも全部最高です!」

興奮気味に言う綾乃に、哲也の母親はまた笑った。

「やっぱり哲也を自由にさせたのは間違いじゃなかったわね。私が選んだ道も」

そう言ってワイングラスにそっと彼女は口をつけた。哲也によく似た、すっと鼻筋の通ったきれいな横顔だった。

「愛とは、お互いに見つめ合うことではなく、 一緒に同じ方向を見つめることである」

彼女のその言葉は、どこかで聞いたことのあるものだった。綾乃はそれを思い出せないまま彼女をじっと見ていると、顔をこちらに向けて笑顔で言った。

「私の最後の舞台稽古で出会った言葉。舞台を降りる覚悟ができた瞬間だったわ」

舞台、というフレーズを聞いて綾乃はつい聞いた。

「もしかして、女優さんだったんですか?」

舞台に立っていた人間だとわかれば、顔立ちが整っていることはもちろん、華やかな雰囲気、活舌のいい澄んだ声、指先まできれいな仕草のすべてに納得できた。
若干興奮気味な綾乃にかまうことなく、玲子…哲也の母親は淡々と言った。

「目指していた、というのが正しいかな。ただの劇団員よ。いろんなところでアルバイトしながら、舞台の真ん中に立てたらってずっと思っていた」

そのとき哲也の母親の姿が割烹かわかみの女将の姿と重なった。哲也の母親もまた、かつて描いた夢と違う道を選び、歩いてきたのだった。

「自分の目指すところを簡単に変えられるようなら、そんなのたいした夢じゃない。だから、綾乃さんの気持ちをわかるつもりよ。私も相当迷った。無理に結婚なんかしなくてもって思ったりして。でもやっぱり、彼と一緒にいるうちにね。知れば知るほど、彼の背負う大きなものを、一緒に手伝って運んであげなくちゃと思った。それが同じ方向を見つめることだと気づいたから」

その横顔の儚さと力強さを眺めながら、綾乃は何も言えないでいた。ここのところ綾乃がずっと悩み、考えていたことについて、目の前の女性はかつて自力で答えを出していたのだ。

「もし綾乃さんが、そういう気持ちになったら、哲也と一緒になってあげてくださいな」

そう言う彼女は、先ほどまでの一人の女性の顔ではなく、立派なたけ久の夫人の顔をしていた。