カウンターの隣に座った女将とビールで乾杯して、女同士の会話が始まる。

「悩んじゃうようなことがあった?」

笑顔で綾乃に語り掛ける女将は、もう昔から知っている女友達のような親しみがあった。年齢は親子ほど離れている二人だったが、年上とか年下とか気にさせない雰囲気が女将にはあった。もっともこの距離感で話ができるのも哲也のおかげなのだが。

「玲子さんに何か言われた?」

玲子さんというのは哲也の母親だ。

「いえ、和やかな食事会だったんです。けど」
「けど?」

話していいものかと思いつつ、綾乃は思い切って口を開く。

「仕事を辞めるように言われました。それで哲也をサポートするようにと、それが家のルールだと」
「あらまあ」

言いながら、女将は綾乃のグラスにビールを足した。
それから一連のことをすべて話した。自分がテレビ局のディレクターとしてキャリアを作ってきたことも、仕事に情熱を持って続けてきたこと。そしてその仕事を通して哲也と関係を作ってきたことも、綾乃が結婚に対して覚悟がない気がしていることも、もちろん哲也を好きなことも、哲也は一緒に考えたいことだと言ってくれていることも。
一通り話を聞くと、女将はビールをぐっと飲んで口を開いた。

「私はね、玲子さんの言うこと納得できるの。」

その時、やっぱり自分は哲也と結婚して彼と同じ苗字を名乗るのにふさわしくない人間に思えた。綾乃の胸の内に気づかないまま女将は続けて言った。

「私ね、昔、美容師だったの。自分の店を持つのが夢で、夜遅くまで練習したし、貯金も頑張った。でも、夢が変わったの。この人が自分の店を持ちたいって言いだして、結局、私の貯金も全部使っちゃって、それがこれ。」

笑って言いながら、女将はマスターのほうをちらりと見る。マスターはバツが悪いのか気づかない振りをして何かを丁寧に切っていた。

「後悔は、なかったんですか」

お酒の勢いもあって、綾乃は思わず聞いた。

「ないわね。一緒にお客さんをたくさん笑顔にしようって決めて、覚悟して始めたお店だから。この人の料理に惚れちゃったからね」
「なんだ、料理に惚れたのかよ」

マスターがいきなり割り込んできて料理を置いてくれた。白い丸い塊に銀色のあんがかかっていて、柚子と三つ葉が上品にあしらわれていた。
かぶら蒸し、熱いうちに食べてとマスターは言い残してカウンターに戻る。

「やっぱり胃袋掴まれちゃうとね。なんて。もちろん人柄にも惚れてるよ」

女将がそう言うと、マスターはまた聞えなかった振りをしてカウンターの奥で何かを準備していた。

「食べましょ。おいしいのよ、これ」

蒸気と柔らかな食欲をそそる香りに綾乃の表情はほころぶ。こうやって人を幸せにする。哲也の料理と同じ味わいがした。
そしてその綾乃の笑顔を隣で見ていた女将が言った。

「これが私とあの人の幸せ。あの人の描いた夢に、私の夢がぴったり重なっちゃったの」

女将は凛としたとてもきれいな顔で言った。
そしでも、そのとき女将が持った‘覚悟’が、綾乃には実感できなかった。もちろん、コン・ブリオがずっと続いて言って欲しいと思っているし、哲也の努力が一層認められて欲しいと思う。でも、自分には想像すらしたことのない世界だった。テレビ局のディレクターになって、自分で番組を作って、世間の人を楽しませたい、何かポジティブなものを届けたいと思っていた。その自分と哲也の目指すところが一緒になること、それを目指して一緒に歩いていくこと。

「綾乃ちゃん、大丈夫。夫婦がみんなおんなじ夢を目指して一緒に歩いて行く必要はないわ。今は特に女の人も自分の仕事持つのが普通だし。それぞれが自分の仕事を持つことで相手を助けてあげられることもある。でも私が言えることは、一つの夢を旦那と分かち合えるって幸せな人生だなって、どんな不景気でも声を大きくして言える気がするの」

そのとき、目の前の女性が覚悟を持って自分の道を生きているのが綾乃にはわかった。かつて描いた夢とは違うけれど、新しい、愛する人と同じ夢を持って生きている。

それが綾乃の目に魅力的に見えないはずがなかった。もちろん、今はやっぱりまだ覚悟なんて持てないし、本当のところで理解できていない気もしたけれど。

「あと綾乃ちゃんにもう一つ言っておくわ。哲也くん逃したらダメよ!あんないい子、他にいないんだから!家柄とかルックスとかだけじゃなくてね、哲也くんの性格を知っているから言うわ。きちんと綾乃ちゃんを守ってくれるから大丈夫!心配しないで、ゴーよ!」

わずか一時間ちょっとの間にしっかり酔いが回って少し頬を赤らめた女将が綾乃の肩を抱いて言った。
その様子を見ながらカウンターの向こうで大将が少しだけ笑って、お冷やの入ったグラスを2つ、用意してくれた。
そんな温かい空気に触れながら、綾乃もいつか同じように、誰かを笑顔にしたいと思った。