綾乃のマンションの小さなリビングのテーブルの上に並べられた二つのグラスにワインを注ぐと、やっと落ち着いて綾乃と哲也は向き合うことができた。

「飲みやすいワインね」
「ああ、イタリア人には物足りないかもしれない。でも日本の香味野菜とか、和食に合いそうだ」

そう言いながら、哲也の作った冷凍ブロッコリーとエビのアーリオ・オーリオを口に入れると、少しだけ違和感があった。たぶん、このパスタにはイタリアのワインのほうが合うのだろう。そしてこの秩父のワインには日本の料理が合うのかもしれない。きっと哲也はわかっていただろう。
それでも、貴重な時間を有効に使おうと、今あるものでディナーを用意してくれた。もう1本あれば違う楽しみ方ができたかもしれない。もっといい楽しみ方があったかもしれない。
そういう違和感を予感しながら哲也はどんな気持ちでこの料理を作ったのだろう。この後の一度きりの人生をどんなふうに思い描いているのだろう。
笑顔でワインを味わう哲也の横顔が、いつもより遠く見える気がした。どんなに迷っても、人生の道は1本だけだった。

「私ね、考えてみたんだけど、気づいたの。結婚が望みじゃなんだって。」

料理の後でワインをもう一口喉に通すと、綾乃は唐突に言った。それは哲也の両親に会う前から感じていたものだった。‘まだ覚悟がない’と言ってもよかったのかもしれない。いずれにせよ、哲也と結婚することが望みでないことは確かだった。
その言葉に哲也の表情が固まる。いつになく険しい表情の哲也の顔に、その頬に綾乃はそっと触れた。今朝、彼がしてくれたように、できるだけ優しく温かく触れたつもりだった。

「誤解しないでね。私はあなたが好き。一緒にいて本当に楽しいし、幸せよ。それは確かだわ。でも、それと結婚は別。だからあなたに結婚が必要なタイミングが来るまでは一緒にいて、きちんと別れるというのでもいいと思うの。私はそれを受け入れる。そのときは遠慮なく言ってくれればいいから。」

それだけ言うと、自分の顔を見られたくなくて、綾乃は俯いた。その言葉は綾乃が、ここのところずっと考えていたことだった。たけ久や彼の家のことを考えるたびに行きつくのが、それだったのだ。
哲也を好きだからこそ、哲也の負担になるようなことがあってはならないのだ。身を引く覚悟があった。哲也を想うがゆえの。

「本気で言っているのか。」

今まで聞いたことのない哲也の強い口調に綾乃は思わず顔をあげた。いつになく鋭い視線。哲也は怒っているようだった。

「俺が、そんな適当な気持ちできみに向き合ってきたと思っているのか」
「そういうわけじゃ」

綾乃は動揺しながらも言い返す。どうしたらこの胸の複雑な感情を伝えられるだろうと思いながら。結婚というもので、彼を苦しめたくない気持ちも確かだった。

「…私は…私よりあなたにふさわしい結婚相手がいると思う。」

ごくわずかに綾乃の声が震えた。正しいと思うことを言っているはずなのに、と綾乃は視線を落とす。今、まともに哲也の顔を見ることができない。

「悲しいことを言わないでくれ。」
顔を上げると哲也は、今にも泣きそうなほど切ない顔つきで言った。
「俺は、きみと死ぬまで一緒にいたいと思ったんだ。だから結婚したいと思った。それなのに、俺がいなくても平気みたいなことを言わないでくれ。」

綾乃は掴まれた両手を動かすことができないまま、ただ彼の瞳を見ていた。今にも泣きたいと言わんばかりの彼の視線の代わりに、気が付くと綾乃がもう泣きそうだった。

「ごめんなさい」
「いや、悪かった」

ついに大粒の雫が目から零れ落ちる綾乃に哲也はすぐさま言った。

「悪かった。泣かせるつもりはなかった」
「そうでなくて」

解かれた手で頬をぬぐうと、綾乃はまた俯いて言った。

「私には、自信がない。料理だってもちろんできないし、着物だって自分で着ることなんてできない。あなたのお母さまのような立ち居振る舞いだってできない。言葉遣いだって適当で敬語もよく間違っているって指摘を受けるくらいいい加減だし。部屋だって汚いのを見ているでしょう?掃除だって片づけだってとにかく苦手なのよ」

何より、覚悟がなかった、と言う本音を伝えずともわかりきったように哲也が言った。

「そういうの、全部ひっくるめて君を好きになったんだけどな」
「…!なにそれ!」

綾乃がそう言うと、哲也はとたんに表情を明るくして大笑いして、それから綾乃を抱きしめた。綾乃の顔を自分の胸に押し込むように。綾乃がいくらでも泣いていいように、その顔が見えないように、強く抱きしめた。

「言っただろう。思った通りに生きる君が好きだと。料理なんて俺がいくらでもつくるよ。必要なら着物だって着せてあげよう。きみのちょっと早口で威勢のいい話し方も俺は大好きだし、うちの母親と同じ姿を目指す必要はない。だから、悲しいことを言わないでくれ。俺は、君じゃなきゃだめなんだ。結婚のことは、俺だけのことでもきみだけのことでもない。一緒に考えたいことだと思っている」

一緒に考えたいこと。
その言葉に、哲也の人柄が感じられるようで、綾乃はつい、また泣いてしまった。やっぱり、自分にはこんなに偉大な人から愛情を注いでもらうような人間なんかじゃないのにと。
それでも。

「ありがとう」

答えではないし、約束もできない。でも今は、それ以外に言葉が出てこなかった。