その数日後だった。はやめのランチに行こうかというところでスマートフォンのメッセージに気づいた。

「いい真鯛を仕入れたので、ディナーに来ませんか?」

哲也からメッセージが来た。曜日にもよるが、彼は朝から市場に出向いて新鮮な野菜や魚を自ら仕入れることも多い。旬の魚はどんなふうに今日調理されるだろう。きっと哲也のことだから、同じく旬のアスパラガスやスナップエンドウなどと、やさしく洗練された味わいに仕上げるに違いない。
想像しただけで、今すぐ食べたい。
が、しかし。

「すごく行きたいけど、仕事が遅れていて。ディナーに間に合わなそう」

綾乃は俯きながら、メッセージを静かに作り終えると、送信のボタンに指を添えた。
実は先日から、仕事がうまく進んでいなかった。いまいち集中しきれていない理由の一つは、やはり園部真理子という女性の存在だろうか。

仕事が片付いていればおいしい真鯛を食べにディナーに出掛けたかったところだが、自業自得だ。
綾乃は哲也にメールを送ると、苦いコーヒーを口に含んで、再びパソコンに視線を向けて、キーボード上の指を動かし始めた。


「もう午後九時すぎ、か。」

綾乃はまだパソコンに向かっていた。
コンビニでも行って空腹を満たしつつ、気分転換でもしようかな、と思ったときだった。
スマートフォンが鳴って、メッセージが届く。

「真鯛と春野菜のデリバリーディナーを用意したけど、どこに届けに行けばいい?」

その瞬間、頭に浮かび上がる、オリーブオイルやニンニクを使ったイタリア料理のランチボックス。
時間帯的に、ディナー営業がひと段落した頃なのだろう。

‘届けに行ってもいいか?’と聞かずに‘どこに届けに行けばいい?’というあたりが、哲也らしかった。
嫌味のない強引さ。相手に負担をかけないやさしさ。
どうあがいたって受け入れたくなるこちらの気持ちを、よく理解している。
今日はコンビニご飯を食べる予定です、とはとても言えなかった。

もはや会いたい気持ちは自分のほうが大きいのを知られたくなくて、必要以上にあっさりした返事を考えてしまう。

「午後十時以降なら自宅にいます」

メッセージを送ると、すぐに「了解」とだけ返事が来た。

さて、ここからは大忙しだ。
急いでパソコンのデータを保存してデスクの荷物をまとめて、電車に乗る。急いで家に帰って片付けをするのだ。見られたら百年の恋も冷めるようなゴミ、洗濯物の山がある。

コン・ブリオの閉店時間から予想して、どんなに早くても午後十時半くらいだろうから、なんとかなるはず。
仕事も片付いていないのに、家を片付けたい。突然の来客なんてめんどくさくてお断りしていた自分が、こんな気持ちになる。それこそが、彼のみがもたらしてくれる喜び。

綾乃は、いかに彼からの連絡が嬉しかったのかを痛いほど実感する。
ああ、さっきのメールでちゃんと「嬉しい」とか「はやく会いたい」と伝えればよかった、と思う。
きっと世の中の女子はもっとかわいらしく愛情を表現するだろうから。

そのとき綾乃の頭に浮かび上がるのが園部真理子さんの姿だったので、慌ててかき消した。
でもきっと、彼女みたいな人なら上手にコミュニケーションをとって、恋愛だってスムーズに進められるんだろうな、と思うほど。
一度見かけたのと雑誌記事の印象だけなのに、なぜだかそう思った。
もっとも、勝手に嫉妬するくらいなら、もっと自分が努力しないといけない。とはいえ、長いこと恋愛から遠ざかっていた30代女には、素直な気持ちを伝えるだけでも上手にできない。

それでも、会えないより会いたい。一緒にいれる限り一緒にいたい。
大人になってもこういう感情を味わうことがあることが、いいのか悪いのか。
とりあえずは急いで家に帰ることにした。