都内にあるイタリアンレストラン、コン・ブリオはいつも明るい雰囲気で活気がある。

それもそのはず。コン・ブリオとはイタリア語であり、音楽用語で「活気を持って」などの意味があり、この店の料理を食べると元気が出るようで、店から出てくる客はみなおいしい料理を満喫して笑顔になっている人たちばかりだ、ともっぱら評判だ。

ところがこの日、唯一浮かない顔をして出てきた客がいた。それは綾乃だった。
「気楽に考えていいから」
まだ明るい秋の午後、そう言ってコン・ブリオから送り出してくれたのはオーナーシェフの石崎哲也だ。
はい、と力ない返事をして店を出た綾乃は通りかかったタクシーを止めると、自宅の住所を告げた。自分の足で自宅に帰るのは少しつらい徹夜明け、かつランチデートの後だった。

時間を30分前に戻すと、綾乃はまた気が重くなる。

「両親がきみに会いたいと言っている。」

本日のおすすめランチを食べ終えて、食後のデザートをいただいているときだった。
だいたいいつも仕事がひと段落したところで厨房から哲也が出てきて、綾乃と少しだけ二人の時間を楽しむのがお決まりだった。その短い時間が、ささやかなランチデートであり、綾乃の幸せだった。
そのとき、いつもより若干真剣な顔つきで哲也に言われたのだ。

「来週、食事に来て欲しいと。もちろん堅苦しいものではないよ。きみの話をしたらぜひ食事を、と。」
「無理よ!」

哲也がまだ何か言いたそうなのをさえぎるように綾乃は強い口調で言った。
来週の木曜日は久々にお互い休日で、少し遠出して日帰りでおいしいものでも食べてこようかなんて話をしていたのに、それがどうして哲也の両親と食事になるのだ。

「たけ久のフルコースでおもてなしするよ」

たけ久というのは江戸時代から続く老舗料亭で、東京を中心に出店しているほかデパートのデリや通販でのお取り寄せ商品でもよく知られている。哲也はそのたけ久の跡取り息子だった。

「急すぎるわ。私の気持ちは房総半島の魚介で決まっていたのに」
「房総半島の魚介を使ってもらうよ」
「そういうことじゃないのよ」

哲也の提案に若干のいら立ちを訴えるように綾乃が言うと、哲也はほんの少しだけ困った顔をした。
困っているのはこちらのほうだ、と綾乃は不満げな視線を向けた。

「生涯一緒にいようと思う女性を両親に紹介するのは当然だろう?」

生涯一緒にいようと思う。
その言葉はなんて甘いのだろう。確かにプロポーズをしてもらった。そしてそれは当人同士の約束ではあるが、結婚を視野に入れながら交際を続けてきた。口約束ではあったが婚約中だ。そしていずれ結婚ということになれば、いつかはこういう面倒なこととも向き合わなければいけないのはわかっているつもりだったが。

「急すぎるわ。洋服だって迷うし、美容室だって行かないと。手土産のお菓子はどうしたらいいの。食べ方だって自信がない。わからないことだらけ。」

時間があればマナー講座にも行きたいレベルだ、と思ったところで哲也が綾乃の頬を軽くつまんだ。

「きみは俺の両親と見合いをするつもり?」

真剣な顔つき。まっすぐな視線。その黒い瞳に見つめられたら、ますますいいかげんな返事などできなくなる。

「ちょっと考えさせて。」
「考えるようなことはないよ。いつも通りでいい。心配なら来て行く洋服を一緒に選んでから行こう。ワンピースをプレゼントするよ」
「そんな」
「大丈夫。和食のマナーが心配なら隣にいる俺の真似をして食べればいい。」

もう一度、大丈夫と言って手を握ってくれた哲也の目がいつになく優しく見えて、心が揺れる。

「君を僕の親に会わせたい」

親に会わせたい。それはただの彼の願望のようだけど、二人の未来のためにも必要なことであるのは確かだった。結婚の意思はお互いに確認しあっているのだから、両親と顔を合わせることは次のステップの一つともいえる。哲也もそのことはよくわかっているように、真剣な顔のまま綾乃を見つめていた。その視線に、ついに綾乃は首を縦に振った。

「…わかったわ」

次の瞬間、哲也の顔がいつもの強気な、自信に満ち溢れた笑顔に変わる。

「よし、約束だ」

そう言う哲也の顔が何かすごく重要な意味を持っていそうに見えた瞬間、綾乃はまずい約束をしたのだろうか、と我に返る。

「あの、大丈夫なの?本当に気楽に食事をするだけなのよね?」

綾乃が心配して聞くと哲也はもちろんと言った。

「両親が君にぜひ会いたいと言っていてね。両親もけっこうなトシだから。俺もたまには顔を出せと言われていてさ。ちょっと今後の経営とか面倒な話も出るかもしれないけど、基本的には気楽に食事をするだけだから大丈夫だよ」

基本的には気楽に食事。
基本的には。

その言葉を聞いた時、綾乃は大丈夫でない気がした。何か面倒な話がありそうな食事会。自分がなぜそこに一緒に呼ばれるのか。何か意味があるのではないかと疑ってしまう。

「大丈夫」

哲也はそう言ってまた笑顔を見せた。
綾乃は覚悟を決める。そう、結婚をするためにはいずれ乗り越えなければいけない問題なのだから、早く終わったほうが気楽かもしれない。そんな気もしてくる。それに考えようによってはそれだけ哲也が結婚に前向きということでもある。そう思おう。

と、自分を奮い立たせてみるものの、次の瞬間にはまた少し落ち込んでいた。

哲也とこの先も一緒にいたいと思うなら、結婚は幸せな選択のはずだった。
誓いを立てて法律で守ってもらって、そうやって結婚をすればつまらない嫉妬や不安だってなくなると思っていた。
それなのに、彼の両親に会うことが、言ってしまえば結婚のための準備は面倒なものに思えてしまうなんて。

どうもいつものように笑顔で店を後にすることができない綾乃だった。