これほどまで必死に綾乃が何を頼んでいたのかというと、イタリアから来日するシェフの通訳兼、番組への出演だ。

料理をすることが自分の仕事だという哲也にとって、通訳の仕事というのは、請けられないというのだ。それも綾乃はわかるつもりだった。オーナーシェフの料理目当てで来店する客のことを思えば、基本的に店を離れるべきではない。

だが、イタリア語が話せるだけでなく、イタリア料理に精通している哲也だからこそ、視聴者の人にとっても有益な情報が得られる番組になると綾乃は考えたのだ。

5分程して自分のグラスと料理を持って、哲也が現れた。

「ボ、ボーノ!」

通訳の仕事を前向きに考えて欲しくて、綾乃は笑顔でイタリア語の「おいしい」を言った。綾乃の必死さも彼は十分わかっているからこそ、頭を抱えてしまうのだ。できることなら力になりたいという彼の気持ちを利用しているみたいで、そこは綾乃も申し訳なさはあった。それでも、番組に協力してくれるなら、とも。綾乃は‘お願い’の気持ちを込めてじっと彼を見た。

「俺が出て邪魔しても困るだろう。そのイタリア人のシェフだって気を遣うんじゃないかな」

哲也が悩ましそうに言う。言われてみれば、自分だったら同業の人間に自分の仕事のやり方を見られるのは気になるかもしれない。まして料理という、芸術と技能の両立する仕事は、特にそうかもしれない。

「でもね、その点については問題なしよ。フラヴィオ・マンチーニ本人からのご指名だから」

フラヴィオ・マンチーニ。

その名前を聞いたとたん、哲也の顔が険しくなった。

「フラヴィオが?」
「え…ええ。そうよ。正確にはフラヴィオの代理人からの連絡だけど。料理は専門用語も多いから、イタリア料理をよく理解しているテツヤ・イシザキに、ぜひって」

哲也は険しい顔つきのままじっと何かを考えているようだった。
哲也は顔をしかめたまま一口ワインを飲むと、綾乃に言った。

「わかった、引き受けよう。」
「えっ、ほんと?」

なぜかはわからないが、哲也が急に快諾してくれたので綾乃はつい歓声をあげる。フラヴィオ・マンチーニというイタリア人シェフの名前を出したことがよかったのだろうか。

フラヴィオ・マンチーニは、もちろん哲也も知っているであろうイタリア料理界の新星と言われるシェフだ。
‘真実’を意味するイタリア語のリストランテ・ヴェリタは記念日などにも使われる憧れの店として、ローマにとどまらずロンドン、ニューヨークにも支店を持つ。そしてこの度、東京への出店が決まり、しばらく彼が日本に滞在するということで、ちゃっかり番組にも出演してもらうことになった、と言う流れだ。

フラヴィオという名前は「金髪の」という意味があるように、ブロンドヘアのまぶしいシェフは、そのルックスでも見る人を魅了する。このイケメンシェフをメディアが放っておくはずがないのだ。

通訳に哲也を指名してきたと言う話は驚いたが、イタリア大使館で働き、現地でも修行をしていた哲也が何らかの繋がりがあったとしても不思議ではなかったので、こうして依頼に至ったのだが。

「フラヴィオと打合せをするときは声をかけてくれ」
「ありがとう。助かるわ」

笑顔の綾乃に対して、哲也の顔が険しい顔のままであることが少し気がかりだった。
それでも、もう番組制作は動き始めている。初めての仕事相手でも、哲也と一緒なら大丈夫と思えるのが嬉しい。

「乾杯」

綾乃がにこやかに言ってグラスを傾けると、哲也は静かにグラスを傾けた。まるで考え事でもしているように、その表情はまだ険しかった。
そんな哲也を見るのは、出会ってから一年以上過ぎて、初めてのことだった。