「断る」

イタリアンレストラン、コン・ブリオの一番奥の席で、夏らしい爽やかな緑色のワンピースに身を包んだ綾乃に、まだシェフコートを着たままの哲也が言った。

「そんな…!」

悲壮感たっぷりに綾乃が言うと、哲也はプリモピアットのパンツァネッラを置いて厨房に戻っていった。
哲也が置いて行った一皿は、パンを使ったサラダで鮮やかな緑が美しいフレッシュハーブをふんだんに使った目にも鼻にもおいしい一皿。

一人残されたテーブルで、綾乃は虚しそうに料理を口に運ぶ。
こんなにおいしい料理を食べていても、一人だと半減してしまう。
仕事中なのだから仕方ないとはいえ、いつものように「ひと段落ついたから」と哲也が自分の向かいに座って、はやく乾杯してくれたらいいのに。それから緑のワンピースが料理と揃いだね、よく似合ってる、なんてさらっと言ってくれたら、ちょっとお酒の入っている今ならすんなり「ありがとう」と笑顔で言える気がしていたのに。

公にはしていないが、コン・ブリオのイケメンオーナーシェフである石崎哲也と綾乃は恋人関係だ。そして先日、哲也から特別なティラミスとともにプロポーズされた綾乃は、結婚前提のお付き合いという、これまでの忙しい日々からは想像できなかった幸せな日々を送る…つもりだった。

しかし、当然まだ左手の薬指には何もなく、綾乃の事情など知らない上司から番組の新コーナーを任されることになってしまい、その準備に追われていた。結婚して哲也と一緒に暮らす、なんて未来は少しも見えないくらいに、仕事のことばかりだ。
そして先ほど哲也に断られたのが、それに関することだ。

いい香りがしてハッと顔を上げると料理を持って哲也が現れた。

「魚介のリヴォルノ風。赤ワインと合わせて召し上がれ」

そういって哲也が料理を持ってきた。トマトで煮込んだと思われる赤い魚介類。魚なのに赤ワインと合わせるなんて興味深い。リヴォルノというのは地名かな?イタリア全土の料理に詳しいなんてさすが、と感心したところで綾乃は言った。

「やっぱり、そういうのも含めて頼める人は他にいないわ。お願いします!」

綾乃が必死で訴える。
その様子を見ながら哲也はまいった、というように左手で頭を抱えると、あと5分待って、と言って厨房に戻っていった。