都内にあるイタリアンレストラン、コン・ブリオはいつも明るい雰囲気で活気がある。

それもそのはず。コン・ブリオとはイタリア語であり、音楽用語で「活気を持って」などの意味があり、この店の料理を食べると元気が出るようで、店から出てくる客はみなおいしい料理を満喫して笑顔になっている人たちばかりだ、ともっぱら評判だ。

ところが、今日、一人の女性が険しい顔で店内から出てきたのは私的な理由のようだ。


「お仕事、頑張って」

温かみがあるようで、投げやりのようなこの言葉は、都内キー局のディレクターである中原綾乃の言葉。店内を出る彼女の表情はどこか硬くて我慢をしているようで、とても満たされているとはいいがたい。

「また連絡する」

コン・ブリオの入り口から声を上げる石崎シェフは余裕があるようで、ないようで。その様子から二人が意味のある関係だとわからなくもない。


数十分前のことだった。

「おいしい。やっぱり旬の魚って栄養たっぷりな感じがする。」
「ご満足してもらえたようで何より」

満ち足りた笑顔を向けあう男女。一人は、都内キー局ディレクターの中原綾乃34歳で、もう一人はこのイタリアンレストラン、コン・ブリオのオーナーシェフである石崎哲也36歳。

厨房で人一倍動き回る彼は腕を見ただけでも鍛えられた体付きをしていることがわかるほどで、顔立ちはどこかワイルドさもあるイケメン。それでいて気品が漂うのは一流イタリアンシェフでありながら、和食の老舗料亭の御曹司でもあるからだろうか。

「この料理のために毎年、春が待ち遠しくなりそう」

そう言ったタイミングで入り口のドアが開いたのだった。

「こんにちは、お世話になります。」

そこに現れたのはきれいめなパンツスタイルで働き盛りの印象を与えながらも、笑顔のかわいらしい女性の姿があった。同時に料理のいい香りをかき消すような甘い花の香り。女としての何かが反応したことを、綾乃はきちんと気づいた。

「すみません、少し早かったですね」
「いえ、もうランチ終わりなんで大丈夫ですよ。こちらで少しお待ちいただけますか」

哲也に促されると彼女は頭を下げ、そして席に着くなり資料を整理し始めた。書類をめくる爪の先まできちんと磨かれている。その様子を見ただけでも、容姿がきれいなだけでなく、丁寧で仕事ができる女性だとわかってしまう。

「雑誌の連載をしているって話をしただろう?その編集さんなんだ。」
「あ、ああ。そうなのね。忙しいところ悪かったわ。」

綾乃は慌てて食後のコーヒーを喉に通す。

「大丈夫だよ。打合せは三時からって約束だから」

哲也の言葉に綾乃は腕時計の時間を確認する。まだ15分ほど時間があるが、だからといって、その15分間、綾乃は哲也を独占する気にも、編集者の彼女を待たせる気にもなれなかった。

というか、15分も前に訪問先に来るという彼女の心理も気になった。確かに遅れるよりはいいし、何かの都合で早く到着してしまったにしても、約束の時間までカフェで過ごすなり方法はあるはずだ。

─何かの意図があってこの時間に来ている?

綾乃の頭にふと浮かび上がる感情。何もわからないけれど、なんとなく不安が襲ってきたのは確かだった。同時に胸の奥がつかえるような不快さも。

それらを流し込むように残りのコーヒーを一気に飲み干して綾乃は立ち上がる。

「お仕事、頑張って」

おい、という哲也の呼びかけをさえぎるように、会計を慌ただしく済ませると、そそくさと店を出た。
綾乃はきちんと笑顔を作ったつもりだった。愛しい彼の仕事を誰よりも理解している、応援している。そんな気持ちでいつも通り店を出たつもりだ。

「また連絡する」

そして哲也のいつもの別れ際の言葉。いつもなら甘い笑顔とともにやさしい声で言ってくれるはずのセリフが、今日は乱暴だった。それが自分のせいであることを綾乃自身もわかりながら。